落ち着いた街 80 田子の浦と新浜地区

入道樋門から振り返ると、富士早川と下堀川が合流したところから樋門までわずか50mほどが「入道川」のようです。

 

樋門の向こうの海岸線を見てみたくなりました。

自然堤防の坂道を登ると、堤防の上に出ました。東は伊豆半島から千本松原、そして西は清水のあたりまで田子の浦駿河湾が一望できます。

静かな波の音が繰り返し繰り返し聞こえてきます。

消波ブロックで囲まれたコンクリートの場所が、入道樋門の排水口のようです。「川切り」という言葉を使わなくても良くなった時代になったのだと思いながら、しばらく海を眺めました。

 

振り返ると、工場群の向こうに東海道新幹線が通過していくのが見えました。あっという間に富士川を越えて見えなくなります。

残念ながら富士山はまた雲の中ですが、刻々と雲が変化するのでまた見えることでしょう。

 

堤防の上は散歩コースになっているようで、意外と人とすれ違いました。

散歩に出かけると海を眺められるなんて、うらやましいものです。

このまま一日中でもここで海を見ていたいと思いましたが、先を急ぎましょう。

 

 

*松林の中の歴史の跡*

 

堤防の下の松林を歩いていると、何か石碑がありました。

    田子の浦航空灯台

 我が国で、飛行機による旅客輸送を開始したのは、第二次世界大戦終了後で、それまでは郵便物及び小荷物等の輸送が主であった。

 昼間の飛行はもとより、夜間飛行も有視界飛行で、まだ無線、レーダーによる電波誘導飛行ではありませんでした。

小糸製作所の創業者 小糸源六郎は、故郷(旧伝法村)に近い田子の浦に航空灯台を献納したいという届出をした。昭和八年1月、関係者による測量が始められ、二月五日には、新浜の小高い松林にその設置場所を決定した。三月二十八日に起工式を済ませ、六月二十五日に完成し、献納式を開催した。

 この灯台は、日本の航空灯台第一号で、上部にも凸レンズの四角のものが四個あって、上方にも先をだしていた。鉄塔の高さは五十メートルであった。

鉄塔の最上部のバスケットの中央に灯台が取り付けられ、灯台の前後に500ワットの投光器が設置され、上り方向(東京)が青、下り方向が赤の光を出して方向を指示した。

昭和十八年ごろまでは点灯していたが、空襲が激しくなってから消灯した。

 

 

「我が国で、飛行機による旅客輸送を開始したのは、第二次大戦終了後で」の一文に、やり残した宿題を思い出しました。

たしか私が小学生の頃、両親に連れられて富士山へ行ったことがあります。その場所で、会ったことのない父方の叔父が乗った航空機が富士山に衝突して亡くなったと聞きました。あれはいつのどんな事故だったのだろうと思いつつ、そのままにしていました。この事故だったようです。確か「BOAC」と両親の会話にありましたから。

 

それにしても、松林の中にこんな航空業界の偉業を伝える碑があるとは。また私の中の「先人」が増えました。

 

備前とつながりのある金毘羅神社へ*

 

松林の中を歩いたのはその先にある金毘羅神社への近道だったからですが、入道樋門から航空灯台第一号と、わずか200~300mなのにすごい歴史ですね。

琴平の金比羅宮とどんなゆかりがあるのだろうと金毘羅神社を訪ねることにしたのですが、そういえば琴電琴平駅のそばには瀬戸内海を行き来する舟のための高燈篭がありました。

 

さて、自然堤防から降りる斜面の途中に、小さいながらも美しい社殿がありました。

新浜 金毘羅神社

 

一、本社祭神高オカミノ神創建不詳であるが、弘化三丙午歳(一八四六)九月吉日新浜村中五穀成就、祈雨止雨の神、昭和五十六年(一九八一)七月一日静岡県神社庁より十三等級「龍神社」と呼称決定

一、祭神大物主神金毘羅様、本社殿は香川県琴平山金毘羅宮を本宮として文政十二年(一八二九)創建されたと伝えられる、金毘羅様とは薬師十二神将の一つであり祈雨、海難祈願の神として祭る

一、鎮守宮聖主天梵王は仏教の神格化したもので神社を守る神

一、開運魔利天。戦勝の神

一、備前さんは備前岡山県)の御用船拾四名の遭難死を古来より祀っていた、何時ともなく忘れていた、探してまつれば霊験ありとのお告げあり宮司により平成三年(一九九一)十一月吉日還座祭施行す

一、平成三年(一九九一)十一月吉日、本殿の改築新浜区の守護神として崇敬し今日に至る

          平成十八年十二月吉日

 

なんと、「備前拾四柱人命霊神(備前さん)」を祀っているようです。期せずして私の遠出の原点である岡山とつながりました。

 

「遭難死を古来より祀っていた」「何時ともなく忘れていた」

それを1991年になって「探してまつれば霊験ありとお告げあり」というのは、もしかすると災害や事故といった理不尽なことは忘れた頃に繰り返すから忘れずに伝え続けよという教訓を言い換えたもののように思えてきました。

1991年ごろは、社会の葛藤の中からリスクマネージメントという概念が少しずつ浸透していった時代でした。

 

金毘羅さんからさらに下ると、自然堤防の内側には静かな昔からの住宅地がありました。

角に美しい日本家屋があり水仙が満開でした。

北西からくる県道341号線が直角に曲がって北東へと続く道は、「しらす街道」だそうです。

その角には一段高くなったところに、氏神様でしょうか小さなお社がありました。

まるで新浜地区を守っているかのようです。

 

地図からは想像のつかない静かで落ち着いた街がありました。

 

 

 

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