米之宮浅間神社の横の下堀に沿って北へ歩くと、潤井川の堤防が見えてきました。
ここまで1万二千歩、少し疲れたと思ったら小学校のそばに木のベンチがありました。座るだけで雄大な富士山が見えます。
この辺りは潤井川の両岸に弥生新田とか本市場新田という水田地帯が広がる地域で、ここから上流1km弱のところに下堀の取水口があるようです。
座っている場所は「五味島」という地名ですが、微高地かどうかわからないほど平坦に感じました。
潤井川の左岸は富士山のふもと側なので、こちら側よりも次第に高くなっているのが見えます。
橋を渡り、左岸の香西新田の畦道を歩いてみました。途中、畦道が草むらになってしまいひき返そうか悩みつつショートカットを選んだら、ズボンの裾がひっつき草だらけになってしまい、取るのに時間がかかってしまいました。やれやれ。
交差点から県道181号線を左折すると富士山へ向かって上り坂になります。小さな川沿いに坂道を登ると川のそばに「三十番神社」の鳥居と鎮守の森があり、「一級河川伝法沢川 水位観測所」の標識がある小さな建物がありました。
一旦雨が降ると、濁流が勢いよく潤井川へと流れ込むのでしょうか。
その向かいには小規模の製紙工場が住宅地にありました。やはり富士市ですね。
ここから東へと曲がると住宅地の中に「山神社」があり、そこを曲がると目指す伊勢塚古墳らしい場所が見えてきました。
周囲が墓地になっているので姿を遮るものもなく、小さな墳丘が目立っています。
6世紀初頭に築造された「この地域を治めていた豪族の墳墓」だそうです。
富士川の濁流が押し寄せてきても、このくらい高い地域だったら大丈夫でしょうか。
*「広く会議をおこし万機公論に決すべし」*
伊勢塚古墳から南東へ300mほどの富知六所浅間神社を次に訪ねました。
地図に池が描かれ、そこから川が始まっていたからです。それをみてみたい。
あちこちの川を訪ね歩いているのも、水源はどこかが気になっているのも一つです。
社殿は想像以上に大きな神社で、うっそうとした鎮守の森の中に大きな池がありました。
そばに何か石碑が建っています。
天皇御誕生は嘉永五年(一八五二)十一月三日御歳十六才で即位され武門の政治を一転して明治維新の大業を断行され五箇條の御誓文を発布「広く会議をおこし万機公論に決すべし」と云う民主主義の根幹をさとされ 教育勅語を煥発して日本の大道を築き 世界に日本の国威を宣揚し文明開化 人心の安定 経済の確立を計り国民の敬慕の念を一身に集められた御遺徳は古今東西に比類なく 普く世界史上大帝と崇められる所以である
明治四十五年(一九一二)六十才で崩御あらせらる
昭和五十七年五月吉日
富士明治会十五周年記念
富知六所浅間神社
富士明治会
全国あちこちを歩くようになり、明治時代の雰囲気に触れることが増えました。
それ以前であれば「教育勅語」「世界に日本の国威を宣揚し」というところだけが印象に残って心を閉ざしていたことでしょう。
ところが人類の為とか後の世に郷土の先覚者となった方々の記録に出会うことで、私自身が明治時代をほとんど知らないまま来てしまったと思うことが増えました。
1970年代の高校生だと時間が足りなくて19世紀後半辺りからの歴史は駆け足で教わったし、戦後四半世紀だとまだまだ世の中の葛藤や混乱がたくさんありましたからね。
「広く会議をおこし万機公論に決すべし」
今現在最も必要なこの言葉が記憶にないのはなんということでしょうか。
国民の声に耳を傾けることもなく、基本策を経済諮問会議で、そして具体策を財務省で決めてしまう「骨太」をおかしいと思わない社会になってしまったのはどうしてだろう、石碑の前で考え込んでしまいました。
潤井川左岸を少し歩いただけで、古墳や新田や明治時代について行ったり来たりしながら考えることになりました。
*おまけ*
「広く会議をおこし万機公論にすべし」から1世紀半後、国民の声には聞く耳を持ったふりをしてなんでも先送りして「検討使」と言われた前首相が「決められる政治を取り戻すことが大事だ」と強行突破を図ろうとするのですから、やはり今の時代は何かが後退しているのだと思いますね。
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