落ち着いた街 81 吉原本町から田子の浦港へ

コンクリート張りですが、覗き込むとほんとうにきれいで豊富な水が流れる和田川に沿って歩いているうちに吉原本町の街の中心に入りました。魚料理のお店が多いようです。

 

 

*延宝8年の災害*

 

天神社があったので立ち寄ってみると、地図にはない池がありました。池の端の岩の間から水が噴き出しているのですが湧水なのでしょうか。

そばに石碑がありました。

当社は往昔吉原宿見附産土神総社にして天の香久山(香久山浅間宮)の高処(み)に在りましたが、度度砂を押し上げられ、所を迫られ鎮座なり難く元吉原今井・鈴川の地に引き移りました。

しかし延宝八(一六八〇)年八月の台風津波にてまたも鎮座成り難く、天和二(一七〇八)年回祿の災で空電灰燼となり、現今の御本殿は寛政元(一七八九)年の御造営であります。

(以下略)

 

「度度砂を押し上げられ」は富士山の火山灰や火砕流でしょうか、それとも海の砂でしょうか。神様も自然災害にはかなわず、転々とされたようです。

 

「富士海岸の災害記録」が静岡県公式ホームページにあり、延宝8年の被害が記録されていました。()は出典。

吉原宿地区

高潮により吉原宿(中吉原)浸水し、中吉原→新吉原へ宿場移転(静岡県史・自然災害誌)

田子の浦地区

田子の浦付近多津波(富士海岸(国土交通省))

8月6日の津波により湊口閉塞(浮島沼と湿田農耕(1996沼津市歴史民俗資料館))

閏8月6日、大津波来襲、再度吉原宿移転(沼津市談No.39)

吉原湊地区

8月6日未曾有の大津波が襲い、湊口は土砂で埋まり。吉原宿(中吉原宿)の人家の大半は流出し、近隣の田畑は大被害を蒙った。吉和宿はまた所替えの止むなきに至った。(はばたく浮島ヶ原(富士東部土地改良区))

いろいろな記録に残る災害だったようです。

 

 

田子の浦の工業地帯を歩く*

 

岳南鉄道吉原本町駅に着いた時にちょうど列車がきたので、ひと駅だけですが乗ることにしました。

 

次のジャトコ駅で下車しました。ここからあと4.5kmほどを歩き切らなければホテルへたどり着けません。すでに2万歩以上歩いたので疲れがたまっていますが、田子の浦へ向かう産業道路のような道を歩き始めました。

ここから先は、「田島新田」とか「島田」という地名ですが見渡す限りの工場です。

沿道にこぶしの花が満開になっていて、元気づけられました。

 

まっすぐな道を歩いていると新幹線の高架橋が見えてきて、俄然元気が出ました。

車窓から見ていた工場群の間の道を田子の浦港まで歩いてみたい、そして潤井川が田子の浦に流れ込むところを見てみたい。

そのための散歩ですからね。

途中、川を渡りました。「小潤井川」で、あの弥生新田と香西新田を流れる川がここへとつながっていたのでした。

やはり、かつてはこの辺りは田んぼだったのでしょうか。

 

東海道新幹線が静かに通過していきました。いつも車窓から見ていた日医工の工場のそばを歩いている間にも何本も通過していきます。ああ、幸せ。

ほんと、新幹線は美しい!

 

新幹線の高架橋をくぐって南がわへ出ると、今度はJR東海道本線跨線橋が高くそびえるように続いています。

そばにはこれまたいつも車窓から見ていた日本食品の大きな工場が建っています。

時々振り返りながら新幹線が通らないかと眺めるのですが、待っていると凪のように来なくなるのが東海道新幹線ですね。きっとわずか7分ぐらいの凪なのですけれど。

 

高くそびえる跨線橋の向こうの風景は見えなかったのですが、頂上まで来たら東側には石油基地がありました。少しだけ海が見えます。

大型車がひっきりなしに走る跨線橋で、歩行者はいないだろうと思いましたが時々出会います。もしかすると夜勤の出勤時刻でしょうか。

 

跨線橋が下り坂になり港湾施設の立ち並ぶ地区に入りました。その先の西へと曲がるあたりで、いつも車窓から見ている田子の浦港の風景になりました。

潤井川にかかる田子の浦橋の近くに「ここでは、港内で掘った土を、良質な土にかえる作業をしています」と、浚渫した土をまた海へ埋め立てや養浜として戻す流れの説明板がありました。

ほんと、知らないことばかりです。

 

潤井川を渡ると右岸の河口付近は旭化成の広大な工場でした。

ここからは国道1号線の喧騒の中を歩くのかとしょんぼりしていたら、水路沿いに「田子の浦 松籟コース」と富士市のウォーキングコースが整備されていました。

工場の周囲に植えられた木々のおかげで、静かに歩くことができました。

 

遊歩道が終わるあたりの交差点が「蓮沼」となっていました。北側に「柳島」という地名があるので微高地のそばの湿地だったのでしょうか。

私が生まれた頃はまだ蓮が一面に咲く向こうに富士山全景が見えていたのではと妄想しながら、国道1号線の「東京から145キロ」あたりを歩きました。

 

無謀かと思った計画を無事に歩き切れたのは、富士市内の現代までのさまざまな歴史の説明板とどこからも富士山や新幹線が見えて元気が出たおかげでした。

 

 

*おまけ*

車窓から製薬会社の工場が見えると、ほとんどが仕事で見覚えのある会社名なのでランドマークになっています。東海道新幹線沿線の工場もだいぶ覚えました。

とりわけ、数年以上前からの医薬品不足による出庫調整の混乱が続いているので、どうか安定してこうした工場が稼働できますように、でもそこで働く方々に過度の負担がかかりませんようにと祈りながら通過しています。

 

 

 

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