黄砂と花粉症にやられ一刻も早く新蒲原駅から静岡へ向かおうと、交通量が多いのに白線しかない県道396号線から上原東高架橋交差点の階段を降りると、その高架橋の真下に小池川が流れていてそばに大きな石碑がありました。
小池川は、先ほどのクミアイ化学の敷地横を流れていた水路と山側からの小さな川を合わせて、富士川河口に流れ込む川のようです。
灌漑用水竣工記念碑
蒲原町は南駿河湾に臨み後背に山地が迫る狭隘な地で農耕地は極めて少なく僅かに富士川右岸に荒廃した広大な地積を有するに過ぎない
蒲原町長佐藤一郎は之が水田化に依って国家の要望する食糧増産を図り農業経営に不動の基礎を作るよう考究して日本軽金属株式会社と再三交渉の結果 同社は農民の苦哀を諒(まこと)とし率先発電用の貴重な水を富士川町中之郷四十九地点から分水供給することに同意せられた
爾来町長始め関係者は幾多の困難を克服し昭和廿四年起工 総工費壱阡五百万円を投じ遂に完成を見るに至った
昭和三十年四月十日建立
(読み仮名と強調は引用者による)
どうやらかつて水田があったようです。
住宅地の先に広大な工場の敷地が見えてきて、日本軽金属蒲原製造所でした。
敷地の外れに大きな水路とそばに発電施設のような建物があります。
西側の山が迫る場所を見ると、発電用の送水管が山肌に見えていました。
歩いているときは花粉症の辛さで失念していたのですが、これがあの石碑に書かれている「発電用の貴重な水を富士川町中之郷四十九地点から分水供給」のことだったようです。
1949(昭和24)年、終戦直後の混乱と食糧不足の中で作られた田んぼの歴史が書かれている石碑で、私が生まれる数年前に建立されたものでした。
*もう一つの田んぼの歴史*
石碑が建っているのは旧蒲原町(現静岡市清水区)ですが、その発電の送水パイプがある山の反対側は富士市中之郷で、その山の中を現在は東名高速道路の蒲原トンネルが貫いているようです。
小池川で検索したら、富士市のこんな記録がありました。
小池土地区画整理事業
・施工主体 組合
・施工面積 4.68ヘクタール
・施工年度 昭和45年度〜昭和49年度
・事業説明
本地区は、昭和40年まで水田として営農されていましたが、往昔から湿田に加えて、煙害による公害等により収量も少なく、農地としての利用価値は極めて低い土地でありました。
当時、東名高速道路建設途上であったため、発生土処理を兼ね土壌改良を図る案が具体化されたが、複雑な形態の土地が多く、計画性のある土地利用は至難であるとの判断により、土地区画整理を行うこととなりました。
区画整理により、公園や道路の公共施設の整備とともに、宅地利用の増進が図られました。
小池川上流とその支流のある、東名高速道路の西側の地域でしょうか。
排水の難しい湿田で米を作り、工場の煙害も受け、宅地へと変わった田んぼがあったようです。
戦後の食糧不足を背景に各地に大規模干拓が進められ、わずか十数年という驚異的な早さで米を食べたいという願いが叶い、そして米あまりの時代になった。
それから半世紀、あまりに時代が近過ぎでその歴史を実感できないと、足りなければもっと作って余れば輸出すればいいじゃない、田んぼがなくなっても輸入すればいいじゃないの雰囲気になってしまうのかもしれませんね。
それは簡単なことじゃあないからこうして石碑にその記録を残していったのだ。
全国各地に残る米づくりの歴史が記録された石碑を見逃さないようにしなければ。
やり残した宿題が次々と増えていくようです。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
工業地帯と田んぼの境界線を歩いた記録のまとめはこちら。
「お米を投機的に扱わないために」まとめはこちら。