生活のあれこれ 64 ゆっくり歩いて完結できる生活を模索する

30年ほど前から危惧していた、高齢者の方の「車輌事故」のニュースが以前に比べると格段に増えました。

 

自動車事故もそうですが、自転車事故やシルバーカーとか、車輌事故の状況もさまざまです。

私が生まれた1960年代はまだ自家用車を持つ人も限られていたし自転車もまだまだ高価だったので歩くことが主だったのが、半世紀ほどで一気に、自分で所有する「車輌」がない生活は想像ができないほど驚異的に変化する時代になりました。

 

日常生活は徒歩かバスで、電車となるとちょっと「遠出」の感覚だったものが、今や買い物にも離れた場所へ当たり前のように行くし、1時間以上の通勤も当たり前になりました。

さらに車や自転車があれば時間も他の人への気兼ねもなく、自由に移動できますね。

 

手放したくないけれど、いつかは「移動の自由」を手放さなければならない時がくる。

でも手放した時には代替手段がすでになくなっている。

こんな時代の葛藤の中にいるのだ、と高齢者の事故を聞くたびに思います。

 

 

*高齢者にとっての自転車*

 

先月、高齢女性が自転車で用水路に転落して亡くなったというニュースがありました。

伝えられた地名から広大な水田地帯で、微高地に集落が点々とある美しい風景を思い出しました。

さえぎるものがない風景ですから隣りの集落も見えます。でも実際に歩いたら、隣の集落まで軽く30分とか1時間とかかかる距離です。

 

何か用事があって自転車で出かけられたのだろうか。

平坦な土地だから、80代になってもなんとか自転車を乗り続けられたのだろうかとあれこれ想像しながら、祖父の自転車の記憶と重なりました。

 

1990年代に最後に祖父に会ったのが、祖母が入院した時でした。

たしか少し前に祖父は自転車で転倒して大怪我をした話を母から聞いていたのですが、まだ自転車に乗っていて、祖母の面会にきていました。

 

「おじいちゃん、自転車乗るの大丈夫?気をつけてね」と声をかけたかどうか、記憶は曖昧です。

若ければ徒歩15分ぐらいの距離ですが、高齢者でも歩くよりは自転車の方が早かったのでしょうか。

大怪我をしてもなお自転車をやめない、80代とはどんなことを考えどんなふうに自転車を使うのだろう。

私には知らないことばかりでした。

その年代にならなければわからないことがたくさんありますからね。

 

その時に30代だった私は、50代に入ってもまだ都内の幹線道路や裏道をスイスイと図書館やプールや新生児訪問のために自転車を使っていました。

でもその祖父の記憶がどこかにあって、高齢者が自転車に乗っている姿をいつの間にか観察していたのかもしれません。

同じ頃、70代に入った母の慎重な安全運転の姿の中にも、微妙に反応速度がゆっくりになっている危うさを感じることが増えました。

 

年齢とともに、私自身も周囲を確認するために振り返る動作が少しゆっくりになったような自覚が出てきた時に自転車を処分することを決めたのでした。

それは百分の何秒の差であの改札の流れが滞るレベルのわずかな遅れでしたが、それは自分の想定よりも早い50代の終わりの頃でした。

その時点で自転車をやめようと思ったきっかけは、80代くらいの男性の乗った自転車が踏切のレールにはまって立ち往生していたのを助けようとしたら、思いもしないほど強く拒否されたことでした。

 

「まだ自転車に乗れる」、そんな強い矜持でしょうか。

祖父もそんなことを思っていたのでしょうか。

運転免許証返却がない分、自転車については自分の身体能力や判断・反応速度などを客観的に認められるかどうか、ほんと難しいですね。

 

 

 

*「車輌」の種類が増え、運転する年代層が驚異的に変化した時代*

 

 

「50代なんてまだまだ若いのに」と思っているうちに、自転車を手放せなくなるような気がして思い切って歩くことだけにしてみました。

やめてみるとそばをすり抜けていく自転車に、「速い乗り物だったんだなあ」としみじみ思います。

 

さらに数年して、電動アシスト自転車電動キックボードとか、今までの自転車の速度感覚とは全く違うものが出現しました。

「20mくらい後ろに自転車がいる」と認識したその直後にはもう電動自転車はそばに近づき、あっという間に遠ざかっていきます。

あれはもはやオートバイに近い乗り物だと思います。

もし少しだけ車道側に私の体が移動していたら衝突されている。そんなヒヤリとすることが増えました。

 

さまざまな年代のスピード感覚や身体能力のことなる人たちがさまざまな車輌に乗って、歩行者の中をすり抜けていく。カオスな世界ですね。

自分が自転車をやめてみてわかる怖さです。

 

歩くだけで成り立つ生活圏が基本になればもっと落ち着いた街になると思うけれど、それには何が必要なのだろうと思いながら歩いています。

さまざまな乗り物などに対応してこれ以上道幅を広げたり横断歩道を増やされると、歩行者には遠回りになるので勘弁してほしいですしね。

 

そしてその歩くことも大変になってきたらといろいろと悩みは尽きないのですが、遠出をしているとさまざまな「人の足になる」工夫が増えていきていることも感じます。

 

この国は時代の葛藤の中から「公共性」を静かに考えて、いつのまにか静かに取り入れていきたのだなあとちょっと希望も持てそうです。

 

 

 

*おまけ*

歩くことを中心にしたら、多少時間はかかるけれど案外と徒歩によって広い圏内を行き来できる自信もつきました。

以前はひと駅間を歩くだけでとてつもなくすごい距離だと思っていましたが、今は難なく歩けますからね。

そして以前は目に入らなかった街の歴史や案内板がけっこうあることを知り、道草の楽しみも増えました。

 

 

 

 

 

 

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