2列の水路を眺めながら歩くと両岸ともに少し高台になった細長い場所になり、目指す水辺公園がありました。
「水辺公園」なんと美しい響きの公園でしょう。地図で見つけて、ぜひ訪ねてみたいと思っていました。
西側の高台は結城第一高等学校で、東側には水路に沿って住宅地が続きそこよりも少しだけ高い場所にかつては結城城があったようです。
細長く続く水辺公園はかつては湿地だったのでしょうか。そのほとんどが池のようです。
用水路沿いには柳が続き、うっすら芽吹き始めて薄緑色になっています。早咲きの桜とこぶしの花が美しい公園でした。
東屋があり、ちょうど12時過ぎ、休憩することにしました。急に夏日になると体が追いついていかなくて、「散歩に慣れている自分は大丈夫」と思い込むのは危ないですからね。
おにぎり美味しい! 22度、熱中症予防に水分と栄養補給が大事。
お米が足りなくなるなんて。祖父母が知ったらなんと思うことか。
駅で買ったおにぎりの海苔は韓国産。韓国の人たちも輸出のために高くなって買えなくなる日が来るのではないだろうか。海外へ物を移動するだけで利益を得る虚業の時代。
まさか用水路を訪ねる散歩で、お米が買えなくなることを嘆くような時代になるとは考えてもいなかったので、思わずそんなことをメモしていました。
20分ほどのんびりと美しい公園と用水路を眺めて元気が出ました。
東側の高台にある城跡歴史公園も訪ねる計画でしたが、駅前まで戻る体力を考えて先を急ぐことにしました。
*田川の河川敷へ*
結城用水沿いに歩き、県道204号線を超えると、右手は田川の河川敷に広がる田畑の砂利道になりました。左手は3mほど高いところに住宅地があり、その崖線沿いに結城用水が流れています。
用水沿いに地図では道が描かれているのでそのまま進むと、畑の中に入りました。
鶯が鳴き、美しい畑が広がっています。
ちょうど作業を終えた地元の方が軽トラックで畑から出てこられたので、この道は歩いても大丈夫か確認すると大丈夫とのことで私道ではなさそうです。
どこに行くのか尋ねられたので、吉田用水を目指していることを伝えると、少し先の階段を上がると水路沿いの道になると教えてくださいました。
「吉田用水」といっただけで地元の方にすぐわかるようです。
このあたりから左手の高台はより高くなり、水路はその崖の中間のような場所を通っています。
教えていただいたように、分水路の水門があり、その横にある階段を登るとまた用水路のそばへと出ました。
日差しが強いのに急に川風も強くなってきたので傘もさせない中、地図では県境のあたりになり、用水路と田川の河川敷の畑はまた同じ高さになりました。
県道の右手は茨城県、左手は栃木県です。
結城市の北端は栃木県側へぐいと飛び出ているのですね。地図で見ただけではなかなか覚えないものです。
「県道35号線」を渡りましたが、地図で確認すると茨城県側も栃木県側も「県道35号線」のままです。県道の県境は番号が変わらないのかと、また知らない世界が増えました。
県道35号線から先も結城用水に沿って地図には道が描かれているのですが、実際には藪でした。
数百メートル北側にある吉田用水から結城用水が分かれる場所を見てみたいと思っていましたが、断念しました。
せっかくなので、50メートルほど東へ歩いて「栃木県小山市」側に立ち、県境の微高地をゆったりと蛇行して流れる田川を眺めました。
川幅はそれほどではないのですが、なかなか美しい川です。
Wikipediaによると田川も「暴れ川」だったことが信じられない穏やかな風景でした。
かつては海底だった関東平野には、川の流れが作り出す地形の変化と闘ってきた気が遠くなる歴史がありますね。
*鎌倉時代に開削された結城用水*
吉田用水は江戸時代に開作されたことは事前に知りましたが、この結城用水の名前はまだ知らないまま訪ねました。
今検索すると、結城市の観光情報にこんなことが書かれていました。
沃野潤す結城用水
鎌倉時代、結城家初代朝光が城の引入用水として掘削したもので、当初は結城城の守備用水的な意義が大きかった。鬼怒川と田川から取水しており、小山地区・結城地区・絹川地区の水田約300ヘクタールを灌漑している。
なんと、吉田用水より先にこちらの水路が造られていたのでした。
水辺公園あたりのなんとも落ち着いた雰囲気は、そうした歴史からくるものもあるかもしれませんね。
城跡歴史公園を訪ねなかったのは残念でした。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
城と水のまとめはこちら。
「お米を投機的に扱わないために」まとめはこちら。