記録のあれこれ 219「吉田用水がもたらす潤い〜先人の知恵と工夫と調和〜」

また寄り道をしてしまいましたが、3月下旬に吉田用水を訪ねた散歩の続きです。

みんなで支えみんなで豊かになろうという時代がいつの間にか変えさせられたことに滅入る毎日ですが、全国津々浦々の田んぼや用水路を歩いたことで、忍耐強くその時代時代を乗り越えてきた歴史を知ることで勇気づけられています。

ここ数年、遠出にだいぶ散財しましたが百聞は一見にしかずですね。米騒動の前に見ておいたのはほんと幸運でした。

 

さて、結城の寺社や蔵をみて歩いたら、ちょうど夕日が沈み始める時間になりました。大地の端へと落ちていくようで、ほんとうにダイナミックな風景でした。

 

ホテルの7階から夜景を眺めました。鬼怒川の右岸の台地の上なのですが、見渡す限り平地に見え、遠くに鬼怒川にかかる鉄橋が見えました。

あらためて、利根川水系の微高地でつくられている関東平野の広さを感じますね。

 

この日は念願の吉田用水の一部を見ることができましたが、この時点で私が吉田用水についてあらかじめ読んでいたのは、平成25年に発行された吉田用水土地改良区の1ページの資料だけでした。

 

吉田用水たもたらす潤い〜先人の知恵と工夫と調和〜

 

 享保元年(1716年)徳川吉宗が将軍となり、政治立て直しのための改革が開始され享保7年には改革が本格化した。こうしたなかで、新田開発の奨励策と治水が打ち出され、三千町歩に及ぶ飯沼新田(現茨城県坂東市)が開発された。その新田のために新たな用水を開削することになったのが、吉田用水である。

 しかし、用水の取水口にあたる農村(絹板村、花田村、延島村、延島新田村)に大きな負担を残した。用水を維持管理するよう幕府から命ぜられ、増水のたびに堰が壊れるなど4ヶ村の財政を圧迫したからだ。また、日光街道助郷役は免除されるなど、重要な役をになっていた。

 

 吉田用水は、全長56kmに及び、流域の村々へ恵をもたらした。取水口付近の農村の払った犠牲は少なくなかったが、それでも大きな事故や紛争もなく用水が維持されたのは幕府の統制もさることながら周辺88ヶ村と地元の村々が協力してことにあたったからだろう。なお現在は、真岡市堀込地内の用水路に堰を設けそこから取水しており、鬼怒川の地下を経て吉田用水に取り入れられている。

※林氏の説明資料から抜粋して掲載しています。

 

「林安雄氏」について、「林さんは、旧南河内町役場で町史編さん室長を歴任、町史にとても詳しいんだ」と説明がありました。

ほんとうに地道にその地域の歴史をまとめ残そうとされる方々もまた、郷土だけでなくまさに国土の大きな財産だと思うこの頃です。

 

さて「吉田用水土地改良区」は、今回の散歩の2日目に歩く予定の結城郡八千代町が住所になっていて、以下のように書かれていました。

受益面積:2,127ha

受益地:茨城県結城市、八千代町、古河市下妻市常総市坂東市

 

「受益面積」を見ても農地の広さを実感できない私ですが、「受益地」を見るととてつもなく広い場所を潤していることがわかりますね。

あの利根大堰からの見沼代用水に匹敵するような感じでしょうか。

 

地図では、この日に訪ねたところから上流7~8kmのところで東へと曲がった田川の右岸から始まっているように描かれていて、そのあたりに「絹板」「延島新田」といった地名が今もあるようです。

 

ところが、現代ではさらにその田川の取水口よりもさらに2kmほど北側の鬼怒川の左岸にある真岡市堀込に水路があり、その先が「江連用水」と合流して関東鉄道下妻駅の西側にある砂沼のあたりまで描かれています。

この鬼怒川左岸で取水された水を地下を通して鬼怒川右岸と田川を越えて、田川の右岸地域へと運ばれているようです。

なんだか気が遠くなりますね。

 

利根川東遷事業だけでなく、その水系全体に網羅された複雑な用水路の開削、そして新田開発

江戸時代の土木事業の凄さとともに、これもまた「先祖伝来の土地」の意味なのだと思うようになりました。

それは「一家系の土地」「一個人の土地」という狭い概念ではないのだと。

 

 

さあ、翌日はまた吉田用水を目指して歩くことにしましょう。

今度はどんな記録に出会うでしょうか。

 

 

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