米のあれこれ 127 「鬼怒川乱流に浸触された沼湿地」の田んぼへ

砂沼の堰堤を下りるとまっすぐな水路を渡りました。これが江連用水のようです。

県道沿いをしばらく歩くと国道125号線と合流し、700~800m先に鬼怒川が流れています。

 

国道には歩道はあるものの、後ろから大型車がビュンビュンと迫ってきます。追われるように歩いていると新鬼怒川橋が見えてきました。大きな鬼怒川を渡るのですからさぞかし足がすくむような大きな橋だろうと覚悟していたのですが、この辺りは川幅も思っていたよりは狭く、対岸の堤防とその向こうの集落がすぐ近くに見えました。

 

鬼怒川のこちら側に「八千代町」と標識がありました。橋を渡ると堤防がサイクリングロードになっているので、交通量の多い国道から逃げるように堤防へと入りました。

河川敷には麦が植っていて、その緑の絨毯と菜の花と美しい風景です。

 

堤防の内側には広大な水田地帯が広がっています。本郷地区の鹿島神社のあたりで西へと水田地帯を突っ切るように歩き始めました。

電柱に「0.5~3.0m 想定浸水深 (赤いテーブの高さは3m)、この場所は鬼怒川が氾濫すると浸水する可能性があります」とありました。

水路はほとんど見かけなくて、パイプラインで送水されているようです。

途中、「農業排処理施設」とありましたが、どんな機能があるのでしょう。知らないことばかりです。

 

田んぼは整然と整地されていて、これからここも麦を植えるのでしょうか。

 

1日目は大丈夫だったのですが、やはり散歩中にマスクをしていなかったせいで今日は花粉症の症状が出始めました。

こぶしの花が咲き、鶯が鳴き、春ののどかで美しい風情どころではなく、2~3分ごとに鼻を噛むなんとも情けないことになってきました。内服だけではダメそうです。

辛いなあと思いながら歩いていると、畦道にタチツボスミレの群生を見つけて元気付けられました。

これならどこまでも頑張って歩けそうと思っていると忽然となくなり、以降、一本も見かけることがなくなりました。不思議な花ですね。

子どもの頃から大好きな花の一つですが、どうやって広がっていくのかさえ知らないままです。

 

 

*微高地へ*

 

堤防からすぐに広がる広大な田んぼの先に、微高地に集落があるのが見えます。遮るもののないその距離はおよそ1kmでしょうか。

なかなか近づかないけれど、水田地帯を歩くのは苦になりませんね。

のんびり歩いているうちに、「吉田用水土地改良区」の標識がありました。

少しだけ盛り上がった場所に家や畑やトラクターが見えます。レタスの栽培をしているようですが、そんな畑にも起伏がそのまま残っていました。

 

微高地の集落の道を歩いていると黒い石碑がありました。

 本地区は往古より北総台地が鬼怒川乱流に浸触されて出来た舌状地形と、これをめぐる沼湿地からなり、近くには和歌城、太田城、鷲沼砦等の跡があり、地勢とかかわり深い歴史が展開された所である。私達の祖先はこの地に定住し、幾多の災害や動乱に耐え、常に力を合わせて集落農業の発展に努力を重ねて今日に至った。中でも大正七年頃先覚者達は、従来周辺より開拓を進めていた若沼地区に耕地整理を実施して、飯米田を確保したといわれている。

 しかし谷津田なるための排水不良は改善されるに至らず、戦後は農業環境が急速に変化し近代機械化農業へ移行する中で、基盤の再整備を望む声が高まり、昭和五十四年関係者一同の総意により団体営土地改良事業として申請し、同年認可を受け着手した。

事業の実施には幾多の問題を抱え困難を極めたが、役員一同の献身的努力と受益者の理解により、工事面積三十八・一ヘクタール、三十アールを標準区画としパイプライン用水方式を導入総工事費三億五百万円と七ヶ年の歳月を経過し近代農業振興の一大事業の完成を見ることが出来たのである。

ここに、この事業の完成に当たり御尽力と御指導をいただいた国会議員赤城宗徳先生を始め県町当局並びに役員の皆様方に対し深く感謝の意を表すると共に当地区が、本事業を発展の礎として更に繁栄することを念じ、中心のこの地に記念碑を建立し、長く後世に伝えるものである。

昭和六十一年三月

若地区団体営圃場整備事業協議会 会長 宮田 敏明 撰文

 

1979年(昭和54)。まだまだ全国で田んぼを整備して米作りを目指していたのだと、各地の石碑から当時の雰囲気を知る機会になります。

 

それにしても各地の田んぼや水路で見かけるこうした石碑を読むと、その地域の地形から歴史あるいは災害や失敗の記録まで網羅した内容が残されているのですから、農業というのはなんと盤石で専門性の高い仕事でしょうか。

だから実業であり、谷津まで整然と田んぼが広がっているのだと。

 

起伏の多い「中心のこの地」にいると、周囲に圃場整備のされた広大な田んぼがあることが想像がつかないほどですが、この石碑でその歴史がわかりました。

 

 

*おまけ*

石碑に「山川終不老」と書かれていて「元農林大臣」の字のようですが、達筆すぎてその名前が読めませんでした。

本文で赤城宗徳氏とわかりましたが、その名前を追っていくうちに、農林大臣が農林水産大臣へ変わった時期について「ああ、そうだったのか」と知ることになりました。

設置当初は、農林省のうりんしょう)という名称だったが200海里水域問題など種々の問題で水産行政の重要性が高まりつつあったため、1978年7月5日に現在の省名に改められた。(Wikipedia農林水産省」)

200海里問題、たしかに水産行政の重要性が高まりつつあったけれど、どこかで道を間違えた半世紀だと感じるこの頃ですね。

 

 

 

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