鬼怒川乱流がつくりだした沼湿地からまた微高地へと上がると、あと少しで目指す八千代町歴史民俗資料館です。
小さな川を渡って町の中心部に入った時は18000歩で、お腹が空きました。ふらりと入ったお店で親子丼とお蕎麦のセットを食べることにしました。ふとメニューを見ると「川海老唐揚げ」とあります。
この地域で採れるのでしょうか、頼んでみました。素朴ですが滋味がありますね。
親子丼とお蕎麦も美味しく、地元の人で賑わっているお店を後にしました。
歴史民俗資料館の西側を流れる吉田用水に近づいてみましたが、水量はそれほどでもないのは季節によるのでしょうか。
いよいよ資料館へ入りました。写真撮影ができないので、ぐるりと見学したあとダメもとで吉田用水について尋ねると、なんと100円で資料がありました。
2015年の「第28回企画展 吉田用水のあゆみー苦闘の三百年ー」の冊子でした。
わずか22ページですが、検索してもなかなかたどり着けなかった内容です。下妻駅からここまで歩いてきた甲斐がありました。
ごあいさつ
江戸時代の中ごろ享保10年(1725年)に吉田用水が開削されてから、まもなく300年を迎えようとしています。吉田用水は飯沼新田開発の折、周りの八沼(山川沼・北沼・菅谷溜井・八町沼・太田沼・若沼・国生沼・古間木沼)の代用水として、鬼怒川の水を本吉田村(現下野市)から引いて開削されました。この300年間には、度重なる修繕と維持管理を繰り返し現在に引き継がれてきました。また、用水末端の水不足は深刻な問題で、水争いも度々ありました。
今回の企画展では、吉田用水の開削とそれに携わってきた人々の苦闘の歴史を紹介します。開催にあたり、吉田用水土地改良区をはじめご指導、ご協力を賜り増田多くの関係者並びに関係機関に厚く御礼申し上げます。
(強調は引用者による)
昼食をとる前に渡った小さな川は地図では「山川沼排水路」と表示されているので、あのあたりが山川沼、そして「太田沼」と「若沼」を通ってここまできたことが分かりましたが、飯沼新田がどこなのか、そして「代用水」の意味は何か、わずか3行の行間を読むにはあまりにも知識も土地勘もなさすぎました。
*吉田用水の始まり*
享保の改革の時代に吉田用水は計画されたようです。
享保7年(1722)7月、江戸日本橋に新田開発奨励の高札が立てられた。たまたま江戸にいてこれを目にした岡田郡尾崎村名主秋葉左平太は、帰村後飯沼周り20ヶ村を代表し、早くも7月23日、江戸北町奉行中山出雲守時春番所へ新田開発願いを提出した。願書は受理され、翌年8月2度に渡る実地見分が行われた。
2度目が8月11日から9月20日までの井沢弥惣兵衛の精査であった。井沢は紀州藩士から抜擢され、同年8月吉宗に謁見したばかりの勘定役という役職であったが、治水・土木技術の第一人者で、その手法は紀州流と称された。飯沼干拓(3000ha)が決定され、彼は新田には用水の確保が必要不可欠である事を関係名主たちに説いた。
井沢弥惣兵衛、干拓した見沼溜井へ利根川から見沼代用水をひいた人ですね。
それにしても、享保の新田開発の時代はまだ「新田には水の確保が必要不可欠」ということを周知する必要があった時代だったとは。
用水は前記思川案も検討されたであろうが、近くの鬼怒川上流からの用水開鑿と共に飯沼近接の山川・北・太田・八町・若・古間木・国生沼・菅井溜井・沼森村水溜の開発も決定された。飯沼干拓は享保10年(1725)正月に開始され、2ヶ年かけて完了した。用水は下野国吉田村(下野市)から取水、享保10年9月着工し、翌年7月に通水した。吉田用水は吉田村から結城市を南下、八千代町、常総市を経て坂東市に至っている。これらの開発には1万121両余の資金がかかった。
用水は幹線が開鑿されれば完成ではない。網の目のように水路を引かねば、個々の水田には水は届かない。そこで分水工事も行われていった。享保10年、十四ヶ用水が開鑿された。用水完成後、その管理・補修等の業務は関係八十八ヶ村管理組合が行うことになった。年々定期的に行う定式普請や大水などに伴う臨時の普請や草・雑草刈りなどがあった。しかし、下流に行くほど水の掛かりは悪くなり、水争いは近年に至るまで耐えることはなかった。
(強調は引用者による)
水田に稲穂が実る風景は、長い苦難の歴史の得難い風景ですね。
*乾田になったのは戦後*
現在も残る地名は、多くがもと沼だったったことを表しているようです。
吉田用水になって水田が作られたといっても、現代の私たちが見ている水田とは違うことが最後のページに書かれていました。
飯沼開発と共に生きてきた人々
吉田用水は飯沼開発の代用水として掘削された用水である。その飯沼開発と共に生きてきた人々の苦労の一端を述べてみたいと思う。
飯沼はかつて膨大な水量だったため幕府も開発を躊躇していた場所である。それゆえ、開発後も水との戦いは過酷を極めていた。寛政2年(1790)の坂野家文書には、ある集落では女性は全て袖乞い(物乞い)、男は出稼ぎなどで、農地を耕すゆとりすらなかったという。その後、岸本武太夫、武八(2世)等の善政に支えられ、さらに二宮尊徳の指導等を受けながらも良田と化すには昭和32年(1957)までの月日を要した。それまでは収穫は1年おきになることも多く、深田を刈り取っては仁連川の土手や農道まで田舟で運び出して、稲架を組み処理していた。
そして昭和32年、菅生沼(法師戸)に逆流水門ができ、ようやく乾田とすることができた。しかし、耕作者一同一息ついたのもつかの間、昭和45年(1970)より減反政策を強いられ、祖先が袖乞いまでして守ってきた農地を次世代には他人に委ねざるを得ない時代に変貌してきている。
今、吉田用水史を編むにあたり、無念の思いを禁じえないところである。
(強調は引用者による)
私が生まれた頃にはまだ、胸の辺りまで水に浸かりながらの米作りが行われていた地域があったこととつながりました。
それにしてもこの企画展からわずか10年後に、こんな時代になるとは。
全国の農家の皆さんの無念さはいかばかりでしょうか。
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