最近は線状降水帯という言葉もすっかり社会に浸透しましたが、最初にこの言葉を知ったのはちょうど10年前で、常総市で鬼怒川が破堤したあの豪雨でした。以来、関東平野に流れる川に関心が広がり、利根川東遷事業や治水の歴史を訪ね歩くきっかけになった災害でした。
八千代町歴史民俗資料館で貴重な吉田用水の資料を購入することができました。古河(こが)駅行きのバスまで少し時間があったのでバス停の前の八千代町役場に入ってみると、「八千代消防団による懸命の水防活動」と「私たち一人ひとりができる流域治水 水災害について知る〜地形の特徴〜」というポスターがありました。
あの日の一面海のような濁流のそばで、鬼怒川の堤防の越水防止のための土嚢を積んでいる写真がありました。
古河駅行きのバスは西へ国道125号線をずっと走ります。沿道には大きな屋敷林があり美しい日本家屋も見えました。どこまでも平らに見えるのですが、途中何本か水路や小さな川を超えました。
一度見ただけではわからない、わずかな高低差です。どのあたりがかつての海や沼だったのでしょうか。
古河駅から湘南新宿ラインに乗り利根川を渡り、ただただ平野が続く風景を眺めながらただひたすら吉田用水を歩く充実した散歩が終わりました。
*鬼怒川の河川改修の歴史*
帰宅してからもずっと飯沼干拓はどのあたりだろうと地図を眺めているのですが、よくわかりません。
飯沼干拓で検索したら関東農政局に鬼怒川南部地区の説明があり、「江戸時代初期」と「江戸時代中期」の鬼怒川について書かれていました。
関東流の河川改修〜江戸時代初期〜
かつての関東では河川や湖沼は現在より大きな面積を占めており、洪水の危機に常に晒されていましたが、戦国時代には戦乱のため、利水事業や治水事業は十分行われませんでした。
「約千年前の河川」の図では利根川はまだ東京湾へと流れ、かつての毛野川(鬼怒川)から霞ヶ浦あたりは広い沼が入り組んで描かれています。
江戸時代初期に治水・河川改修を任されたのは徳川家康の家臣である伊奈備前守忠次と彼の土木技術を引き継いだ伊奈一族でした。彼らは関東流の治水技術によって、東京湾に流れ込んでいた利根川と渡良瀬川を鬼怒川流域を通して太平洋に流す工事を行いました。
彼らは鬼怒川と小貝川についても河川改修を行いました。(中略)鬼怒川を小貝川と分離して常陸川(現在の利根川)に流すよう流路を変更しました。
見沼の田んぼや荒川の背替えあるいは備前渠など、あちこちで目にする伊奈一族ですね。
「川を付け替える」、機械のない時代にすごいことです。
紀州流の河川改修〜江戸時代中期〜
徳川家八代将軍吉宗の時代になると、享保改革の新田開発政策がとられ、吉宗に呼ばれて紀州からやってきた井沢弥惣兵衛為永の指導で飯沼、大宝沼など多くの湖沼が干拓され、新田開発がおこなっわれました。沼を干拓して新田を作り、水源を失う代わりに用水路を掘削して鬼怒川などの河川から用水を引くという方針でした。
「沼を干拓」
あの海水から淡水に変えて干潟を水田にした沿岸の干拓ともまた違う、湖沼の干拓の歴史や技術、知らないことばかりです。
*「飯沼の干拓」*
この関東農政局の説明を読んで、飯沼がどのあたりなのかだいたいの場所がわかりました。
江戸時代初期以前の飯沼は、下野国に源を発する江川が流れ込む幅約4km、長さ約2kmの葦の生い茂る湿原で、鬼怒川に流出していました。江戸時代初期の河川改修の後、鬼怒川の河床が上昇し、流れ込む水がせき止められて沼沢地となりました。当時は雨が降って鬼怒川が増水すると、鬼怒川から逆流した水で飯沼は満水となり、周囲の田畑は冠水し、農作物に甚大な被害を与えていました。
享保10年(1725年)になると、井沢弥惣兵衛為永によって飯沼が干拓され、新田開発が行われました。これは、飯沼の中央に飯沼川を開削し、菅生沼を通して利根川に落とすとともに、鬼怒川の水を吉田(下野市)から引いて干拓地にかんがいするという計画でした。
ところが、その導水路は分水と漏水のため飯沼の干拓用水としては役に立ちませんでした。さらに洪水によって上流から運ばれた土砂の堆積や天明3年(1773年)の浅間山の大噴火で降り積もった火山灰によって利根川の河床が上昇してしまいました。その結果、利根川の水が逆流しやすくなり、飯沼干拓地は再び排水不良になり、毎年のように水害を受けるなど、営農上の大きな負担になっていました。利根川の歌唱は、享保時代から明治30年までの間に3m以上上昇しました。
飯沼新田に流れ込む水を迂回させるために飯沼の周りに掘った西仁連川、東仁連川などの承水路が掘られましたが、排水能力は十分ではありませんでした。
八千代町役場から乗ったバスで、古河駅の東12kmほどのところで西仁連川を超えました。
あのあたりから地図では西仁連川と東仁連川にはさまれた長細い水田地帯が南東へと続き、途中で坂東市中心部へと向きを変えたあと、また南東へと細長い水田地帯が続き、利根川左岸から約1kmほどのところに菅生沼があり、そこまで飯沼川が続いていました。
「谷津」や「谷戸」というには平らで、微高地の合間を縫うように長く田んぼが続いているようです。
どうりで地図で八千代町のあたりを探しても見つからないはずでした。
江戸川が分岐したあたりから利根川下流の左岸には、こうした排水路や承水路が描かれた長細い水田地帯がたくさんあるようです。
どんな歴史があったのでしょう。
さて、「飯沼の干拓」は以下のようにまとめられていました。
その後、県営事業による昭和4年に幸田排水機場の設置、昭和19年の西仁連川の改修、昭和24年の東仁連川の改修、昭和58年の幸田新排水機場の竣工等をへて美田地帯が成立しました。
本当に気が遠くなるような、川の付け替えと干拓による田んぼの歴史でした。
そしてこれが、「先祖伝来の土地」の意味かもしれませんね。
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