水のあれこれ 425 鹿沼の文化用水・木島用水

用水沿いの東屋で休憩し、遊歩道沿いに歩きます。途中、「手づくり郷土賞 生活を支える自然の水 三十選」「金建賞 下水道水緑景観モデル事業」とはめ込まれた石碑がありました。

 

「手づくり郷土賞」、日野の黒川清流公園酒匂堰、そして篠田堀親水緑道で目にしました。

こうして昔からの水路を保存し記録していくことは、きっと後世で役に立つだろうなと思いながら、東屋やベンチがある遊歩道をしばらく歩くと、あの蔵のようなおしゃれな建物のそばに来ました。

文化活動交流館などがある一角のようです。

木陰も涼しく美しい水路です。

 

*文化用水・木島用水と文化橋*

 

「文化橋」の石碑がありました。

 文化橋の橋名の由来は、府所用水が文化2年(一八〇五)に改修され、元号をとって文化用水と改称され、その文化用水に架けられた橋から来ている。

 昔の街道筋は、鹿沼宿田町通りを北に抜け富島弁天のところを通って御成橋に至るが、富島弁天から東に分かれて黒川畔に達する道が文化用水を渡るところに架けられた橋が文化橋である。黒川畔で末広町から宇都宮への通称宮街道と合わさる。

 文化橋の地は、また、文化用水第二の堰のあるところで、ここで用水の余水を東に分流して黒川に放水している。

 明治になり、文化用水から改修され、木島用水、あるいは木島堀と呼ばれるようになった。

 大正に入り、世界大戦の好況により近傍に○(読めず)工業などの設立が相次ぎ、一町内を形成するほどになり、すでに文化橋付近は地名としての文化橋が定着していたこともあって、文化橋町と命名されることになった。

 

簡潔な文章ですが、おおよその歴史がわかりました。

蔵も当時とつながるのでしょうか。そしてこのあたりは街道の途中のランドマークだったのかもしれませんね。

 

 

*用水路に沿って星の宮公園へ*

 

藤棚があり芝桜とベンチもありゆったりとした遊歩道が国道239号線で忽然と住宅地へ消え、北西約百数十メートルは暗渠のようです。

 

水路を求めて歩いていると、お蕎麦屋さんから良い香りがしてきましたが、誘惑に負けずに歩き続けると水路のそばに大きな木と神社がありました。

石碑に「〇〇稲荷神社」と彫られているのですがよく読めず、地図のその場所は「末広町集会場」になっていて神社は描かれていません。

そばに、「川は心の鏡」と書かれた錆かかった板が立っていました。こういう言葉を思いつく方はどんな方だったでしょう。

 

美しい流れをしばらく眺めながら水路を追って歩くと、県道4号線にぶつかるところで二手に水路が分かれていました。

 

はなみずき通りを水路沿いにまっすぐ歩くと、国道121号線の先に田んぼと分水路がありました。いよいよ田園地帯でしょうか。

歩道には花が美しく、まっすぐな道も苦になりませんね。

東側に公園が見えてきました。地図では水路に囲まれた星の宮公園で、水路のそばに小さな祠があります。

休日でたくさんの家族連れが遊んでいましたが、広い公園なのでゆったりです。周囲は新しい住宅地といった雰囲気です。

どうやらちょうど1ヘクタールのようで、かつてはこの公園も住宅地も文化用水が潤していた水田だったのでしょうか。

 

しばらく東屋に腰掛けて休憩しました。

ここから南の地域は地図では水路がまばらにしか描かれていないので、このあたりまでが文化用水・木島用水の範囲でしょうか。

 

*「文化用水・木島用水」の先人の記録*

 

この用水名を知ったのは、「文化用水・木島用水(上下巻)」(ジブンスタイルかぬま)という先人の記録でした。

かつての絵図や現在の写真が豊富で、帰宅してからもう一度読むとだいぶ流れがつながりました。

 

暗渠の紹介の次は、開渠の紹介です。鹿沼宿地内には北から南に向かって流れる用水が何本もありました。大きなものは内町通り、田町通りの中央を流れる宿場用水、その東を流れる文化用水(木島用水)の3本です。今回はそのうちの文化用水(木島用水)を紹介します。

 

文化2年(1805)に、御成橋の南から黒川から取水して、鹿沼宿の東側を流れる府所用水に合流させる用水路の工事が始まりました。完成した用水は年号から「文化用水」と呼ばれ、そこにかけられた橋があったあたりが今の文化橋町です。明治になり、御成橋町の木島文次郎が取水口を堅牢に改修したことから、人々はその堰を「木島堰」、用水を「木島用水」「木島堀」と呼ぶようになりました。画像1は1712年の絵図です(青が水路)。また文化用水はありませんが、府所用水はすでに存在しているのがわかります。基本的な流れはこの頃からほとんど変わっていません。(以下、略)(「文化用水・木島用水(上巻)」)

 

取水堰に向かう途中の水音がした暗渠が宿場用水で、期せずして歩いていたようです。

 

末広橋から南下した用水は、蝉ヶ淵稲荷の横を通り、寿司屋の横を抜けて旧五軒町付近を通過、酒屋の横に出ます。ここで道幅が広がった古見ね通りの手前、酒屋の西側(下田町2丁目と東末広町の境)で用水は3つに分かれます、見た目は二つですが、実は左の水路がさらに二つに分かれて一つは東小学校の方へ流れていきます。それを東堀(ひがしっぽり)または「むこうはじっぽり」、画像20の右の水路を中堀(なかっぽり)、画像19の右の水路を西堀(にしっぽり)または「こちはじっぽり」と呼んでいます、東堀は住宅地を抜けた後、貝島街道黒川に注ぎます。中堀、西堀は、住宅地の中を流れていきます。

(同上)

 

神社名がわかりました。そしてその先にある分水路は「二つ」に分かれるのではなく、三つに分かれていることも知りました。

そして私が歩いたのは中堀のようです。

 

そして大正時代の絵図に「黒川から取水した水路は日本麻糸会社工場の中を抜けて」と説明があるので、あのおしゃれな蔵風のある一角とつながりました。

なんとすごい記録でしょうか。

 

水路をたどるとその地域の歴史が次々とつながっていきますね。

そしてますますその地域を知りたくなります。

学生の頃、歴史がちょっと苦手だったのが嘘のようで、次々と宿題が片付いていく達成感です。

 

次はどんな先人の記録に出会うでしょうか。

 

 

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