「世界大戦の好況により」という言葉に引っかかってWIkipediaの日本の大戦景気を読んでいたら、まさに「歴史は繰り返す」のだと思いました。
「産業が発展して好景気になった」と言われた第一次世界大戦中からその終戦後の「社会の変化」は、まるで現代のようだと感じたのでした。
*日露戦争後「五大国」の一国となった日本*
はるか昔に習った「明治時代」というのは「富国強兵」「殖産興業」政策とともに、日清・日露戦争での勝利で列強国になっていった時代という感じでした。
大正時代に入ると「日露戦争から第一次世界大戦までの約10年間、「五大国」の1国となった」とか「すでに有数の先進工業国であった日本」と、私の中の明治から大正時代のイメージよりももっと自分達は進んでいる国の側という意識が強かったのだと思いながら読みました。
確かに遠出をしてあちこちを歩くと明治から大正期に発展した産業や鉄道の記録を読む機会が増えて、実際に工業や貿易の発展は目覚ましいものがあったようです。ただそれは自国が戦場とならなかった国が有利となり、需要が高まったという感じでしょうか。
私の中での「日本の工業国化と先進国入り」や「経済発展」というのは各地に工業地帯が造られた1960年代以降のように思い込んでいたのですが、なぜ、そういう記憶のギャップが起きたのだろうと不思議な感覚に陥ります。
*当時の国内の生活はどんな感じだったのだろう*
そういえば、当時の日本国内の生活はどんな感じだったのだろう。
半世紀前、授業で習ったのかそれとも習わなかったのか、あまり記憶にありません。漠然としたままでした。
1914年(大正3年)にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦の影響について、Wikipediaの「大戦景気(日本)」の「産業の構造と社会の変化」で気になった箇所を記録しておこうと思いつきました。(強調は引用者による)
経営者団体の設置
目覚ましい経済発展の中で、第一次世界大戦中から戦後にかけて、財閥の主導によって大資本家の主だった人々を網羅した日本工業倶楽部(1917年)や日本経済連盟会(1922年)など、資本家・経営者の団体が設立され、経済政策の形成における彼らの発言力が強まった。
現在は表だった「財閥」はないけれど、富は集中していそうですね。
そしてこの流れが経済に限らずさまざまな分野の基本策を(勝手に)決めて、具体策は財務省で決める骨太のやり方へと繋がっているのでしょうか。
都市への人口集中
工場労働者は第一次世界大戦開始の1914年には85万人であったが、5年後の1919年には147万人と2倍近い増加を示し、とくに重化学工業の発展の結果、男子労働者が急増した。商業・サービス業の発達もめざましく、都市への人口集中が目立った。
梅村又次の推計によれば、1913年から1920年までの7年間で農林業人口は約70万人減少して1,416万人になり、非農林業人口は約250万人増加して1,304万人に達した。
1970年代から80年代ごろの話かと思ってしまいました。ちょうど一世紀前、日本の総人口が5,596万人ぐらいの頃からずっとこの方向性だったのですね。
都市の変貌
工業ブームで、資本家による工場の新設や設備の革新も活発だった反面、廃棄された機械をベテランの職工が横流しして大金を得たり、あるいはみずからそれを利用して工場を立ち上げるケースもあった。そこから労働力不足が生じ、「成金職工」と呼ばれる富裕な職工も出現することとなるが、従来、都市部の伝統的な職種であった女中や丁稚のなり手がおらず、人手不足に陥るという状況があらわれた。
また、明治の末年に摂津紡績が朝鮮人女工を導入したのを嚆矢として日本人労働者の5割から8割の賃金で働かせることのできる朝鮮人労働者が続々と移入され、大阪では全国最大の朝鮮人町がかたちづくられた。
現代の「大企業対中小企業、あるいは一次産業」といった感じでしょうか。
日本国民も海外移民や出稼ぎとして送り出す反面、他国からも安い賃金の労働者を入れるのはすでに一世紀前に行われていたのですね。
農業と農村の変化
工業の発展にともない都市化が進展すると、農業も変貌を遂げた。野菜・果樹・畜産物など商品的な農産物に対して需要が拡大し、農業技術においても脱穀機の普及や大豆粕肥料・化学肥料の使用が増加した。しかし、一方では地主による土地集積がすすみ、農村人口の都市流出や農産物における工業製品との価格差の拡大など新たな問題も生じた。
まるで現代の話かと思う内容ばかりですが、問題の本質は余り変わらなくて、今はこの大正時代のバージョン2という感じかもしれませんね。
「骨太」の本質はそこなのだと思えてきました。
そしてその「大戦景気」の時代の「インフレーションと人びとの生活」には、泣けてきました。
物価高騰と生活苦
賃金や俸給は物価に見合って上昇したわけではなかったので、多くの場合、労働者、サラリーマン、官吏の生活はかえってきびしいものだった。「職工中の成金」といわれた造船労働者には、1913年から1917年まであいだに161パーセントもの増収となった者もいたが、平均すると47パーセントも下落しており、生活費の高騰を考慮すると、それ以上の生活苦であった。富山県の漁村より始まった1918年米騒動が全国的に波及していった背景には、インフレによる生活難があったのである。高度経済成長期の賃金上昇が消費者物価の上昇率を上回って所得分配の平等化を促したのに対し、この時の好況は、物価高騰が賃金の上昇をうわまわったために、所得配分は不平等なものとなり、社会の緊張をむしろ激化させた。
下層の人びとの生活は困窮し、大都市ではスラム街が形成され、また、いたるところに質屋があって隆盛し、小学校に入学したばかりの学童も家計を助けるために働いた。欠食児童も多く、朝食抜きで登校することも多かった。官公吏は、その待遇の悪さから、民間に転職することも流行した。妻の内職は当然のことであり、避妊具を購入する吏員が増え、当時の法で禁じられている人工中絶さえおこなわれた。大阪市では、外勤の警察官150余名が結束して当局に生活苦を訴える嘆願書を出す事態が発生している。小学校の教員は低収入・栄養不良が原因で結核に感染するケースが多く、結核は教員の死因の3分の1におよび、社会問題化した。
経済学者河上肇がベストセラー『貧乏物語』を『大阪朝日新聞』紙上に連載したのも、大戦景気のさなかの1916年であった。ここで河上は、貧乏人が貧乏であることは決して当人の責任ではなく、資本家や「成金」と呼ばれる人々の奢侈にこそ元々の原因があると主張し、かれらの道徳的自覚を求めた。
「大戦景気(日本)」の中で、まさかこんなに多くの箇所で成金を目にするとは。
そして1918年米騒動にこんな説明が。
米価格高騰を見て、次第に米作地主や米取扱業者の売り惜しみや買い占め、米穀投機が発生し始めた。
まだ大阪堂島の米市場があった頃ですね。「自由な」とか「市場経済」と言えば聞こえはいいけれど、こういう時代の雰囲気に米を投機の対象にしようという歴史もまた繰り返すのでしょうか。
時代背景は違えども、時代は繰り返す。
勉強になりました。
*おまけ*
「大戦景気」を読んで、30年ほど前に「古い」と壊されていった制度の始まりを知ることになりました。
大阪では市役所を中心に公的な労働者福祉事業が本格化し、公設市場・簡易食堂・共同宿泊所などが設けられ、方面委員制度も実行にうつされた。1920年前後に高揚したストライキの影響を受けて、住友系工場が他の工場にさきがけて終身雇用や年功序列を柱とする新たな労務管理を採用し始めている。
終身雇用、歴史の中では意外に新しいシステムだったようです。
「労働力の流動化」がもてはやされた結果非正規雇用が増えただけで社会が不安定になったその反動は、「歴史は繰り返す」ですね、きっと。
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