生活のあれこれ 65 水郷(すいきょう)の生活

「古今未曾有とされる豪雨」はどんな感じだったのだろうと思いながら、二手に別れた三隈川(筑後川)の北側に架かる島内堰の橋の上を歩きました。

ここから上流の川幅が広くなった場所はまるで湖のような静けさで水を湛え、青空と雲が映っています。

 

島内堰の対岸は亀山公園の鬱蒼とした森で、川のすぐそばを遊歩道がぐるりと通って庄手川を渡る沈下橋が見えてきました。

地元の方と思われる人がぼちぼちと川沿いを散歩されています。

こんな美しい場所を毎日歩いて、川面を眺めながら思索できるなんて羨ましいことです。

 

それにしても同じ川から分岐した流れだというのに、一本一本の川の風景が全く違うのが興味深いですね。

亀山公園がある場所は地図では大きな中洲で、庄手川の右岸が三隈川(筑後川)の右岸です。大きな水害のあった地域なので高い堤防を想像していたのですが、沈下橋庄手川を渡るとそこもまた川面とあまり変わらない高さの遊歩道が続き、ほんの1~2mほど嵩上げされてすぐに住宅が立ち並んでいます。

石積みの壁は、年月を重ねたもののように見えました。

 

住宅の間の小さな坂道を上り、振り返ってみると亀山公園の森と庄手川の流れが路地の間から見えて、なんとも美しい風景でした。

 

 

*三隈川を分流させる日隈山*

 

島内堰を渡ったところに亀山公園の案内がありました。

  亀山公園

 亀山公園は、市街地の南(日ノ隈町)に位置し、筑後川(三隈川)に沿い、日田三丘陵の一つ、日隈山を中心とした公園です。この日隈山は、三隈川を分流させており、ここに立てば、川の流れの真中に立つ心地がすると思います。また、南は三隈堰と島内堰により、水は満々とたたえられており、東端のみどり橋の架かる水辺は、せせらぎをなして流れ、日田市を代表する水辺景観の地であり、歴史的に歌にも詠まれた景勝の地でもあります。

 公園内には、イチイガシ、ムク、エノキ等の数百年の大木が生い茂り、鵜飼と屋形船の三隈川に隣接する「水郷日田」を代表する公園であり、市民や観光客の散策の場として親しまれています。また、公園西側には桜が植えられ花見の名所となっています。子供達の遊べるせせらぎ水路や滑り台、ブランコなどもありますので、ご家族でおくつろぎください。

 

「ここに立てば、川の流れの真中に立つ心地がすると思います」、まさに。

そして無駄のない文章でこの地の美しさが説明されていました。

 

たしかに少し小高い場所ですが、「日田三丘陵」の一つが中洲になっていたとは。そして日隈城(ひのくまじょう)がかつてあったようです。

沈下橋は「みどり橋」で、期せずして日田市を代表する水辺景観の地を訪ねたのでした。

木が生い茂っていましたが、「数百年の大木」はあの「古今未曾有の豪雨」にも平成29年7月の水害にも耐えてきたのでしょうか。

 

 

*三隈川右岸へ戻る*

 

地図で見つけた場所を、ぐるりと三隈川を渡りながら歩くという念願が叶いました。

 

庄手川からの小さな坂道を上ると住宅地が広がり、一角に観光案内図と木のベンチがあったのでそこで小休憩しました。目の前には古い民家を食堂にしたお店や蔵もあります。

このあたりは、浸水から免れたのでしょうか。それとも復興したのでしょうか。

しばらく街の中を歩くと、中野川と水路が合流する場所があり、ここも住宅地の間を豊かな水が流れていました。

 

そばにある食堂に入り、楽しみにしていた日田ちゃんぽんを食べることにしました。旅に出るとちゃんぽんをむしょうに食べたくなりますからね。そして、メニューにとり天があるのを見て思わず追加で注文。2022年に大分を訪ねたときに食べることができなかったとり天のリベンジです。

ちょっと頼みすぎかなと思ったのですが、美味しすぎていつの間にか食べ終わりました。

日田にちゃんぽんやとり天が広がり出したのは、いつ頃どんなきっかけでしょう。

 

そして怒涛の濁流の映像をニュースで見てから8年、どんな生活をされてきたのでしょう。

 

手際よく調理をされているお店の方に尋ねてみたくなるのをぐっと抑えて、後にしました。

 

 

*「すいごう」ではなく「すいきょう」*

 

「水郷日田」、まさに川を中心に水路が美しい街です。

「すいごう」だと思ったら、Wikipediaの「日田市」に「水郷(すいきょう)」とあります。

 

Wikipediaの「水郷」に日田についての説明がありました。

大分県日田市

・「すいごう」ではなく「すいきょう」と呼ぶ。日田盆地に流れ込む多くの河川は三隈川(筑後川)に合流し、日田温泉(隈町)の南に広がる「銭渕」(ぜにぶち)と呼ばれる広い水面には夏になると屋形船が漕ぎ出し鵜飼や宴などの舟遊びが行われる。もともと日田は、水利の悪い土地柄であったが、江戸後期に豆田町の商家6世廣瀬久兵衛(広瀬淡窓の弟)が治水工事を行い、農業用水や通船の水路を張り巡らせたことが水郷と呼ばれる礎となった。

 

「もともと日田は、水利の悪い土地柄であった」

「水利が悪い」、どんな意味や歴史があったのでしょう。やり残した宿題が増えました。

 

 

*おまけ*

Wikipediaの「日隈城」によると、庄手川はかつては小股川と呼ばれていたのでしょうか。

小股川は当時は川ではなく、人工の堀(切り抜き)であったが、廃城の後に洪水によって川となったと伝えられている

Wikipedia「日隈城」「構造」、強調は引用者による)

 

「庄手(しょうで)川」で検索したら、「ひた水環境ネットワークセンター」のサイトに、あの亀山公園との間の美しい川の流れを坂道から振り返った場所に濁流が押し寄せている写真がありました。

2017年(平成29)だろうかと日付を見ると、なんと2022年(令和2)7月7日のものでした。庄手川河畔の石積みの上端ギリギリのところまで濁流が流れていました。

 

 

 

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