旅の出だしからアクシンデントのあった長い1日目でしたが、日田の美しい川や水路と美味しい食事に満足し、ホテルに戻りました。
日田では1泊の予定ですが、2泊いや3泊ぐらいにすればよかったと後悔しました。
ホテルの窓からは北側の山並みと、三隈川右岸にある市街地が緩やかな上り坂になって広がっているのが見えます、
そして遠くにやはり目立つ高い山は由布岳のように見えるのですが、あの山の名前はなんというのでしょう。
テレビから「霜注意報」と聞こえてきました。翌日の日田の予想気温は最高が28度、最低が6度と寒暖差が大きいようですが、九州北部でも明日はダントツの暑さになりそうです。
ちなみに東京の予想気温は22度でした。5月初旬の九州の遠出は熱中症に要注意ですね。
翌朝、4時40分過ぎから白々と夜が開け始めました。
眼下には日田駅と線路が見えて、5時には薄暗い中、回送電車が入ってきました。久大本線の赤い車体、九州の風景に映えますね。
5時25分には山の端から日が上り始め、5時26分には久留米行きの始発が出発しました。静かな静かな日田の朝です。
今日は10時42分の久留米行きに乗る前に、日田市内を歩きましょう。
*田島町から大原八幡宮の水路へ*
「日田」市という名前なので、きっと田んぼがあるに違いありません。
地図を眺めると、東側の山裾に沿って水路が曲がりながら北へと流れ、大原八幡宮の先で暗渠になるようです。地名も「田島」町です。
8時15分にチェックアウトした時は、16度でしたがひんやりしています。
東へと緩やかに県道16号線を上っていくと、轟々と水音が聞こえてきました。
側溝の下をすごい水量の水が流れています。そばに「おがみ堂」があり、木のベンチもある地蔵堂のようです。
記録には残していなかったのですが、飛鳥川のそばにもこういう座れる地蔵堂があり、足腰の痛みに効くことが書かれていたのは、辛い農作業の合間の休息のためだったのでしょうか。
そんなことを思い出していたら、道路沿いに田んぼがありました。
やはり「田島」地区ですね。
そこから北へと水路を目指すと、奥村日田病院の横の水路へと出ました。病院の駐車場が一段低くなっているので、そこもかつては田んぼだったのでしょうか。
石積みの水路に赤い橋がかかり、清冽で水量の多い流れです。地図では少し上流の山の合間の水を合わせてできたように見える水路です。
ところどころ緩やかに蛇行しながら流れ、右手は少し高く、左手は低い位置に市街地が見えます。山肌に沿って幹線水路のような役割を持っていたのでしょうか。田んぼも少し残っていました。
左手に低い位置にグラウンドがあるあたりで目の前が開けるような感じで、右手は日田市の弓道場や公園が整備され、その先に見える鬱蒼とした鎮守の森へと水路はまっすぐな流れになりました。
境内には池があり、入り口に「小ヶ瀬井路の碑」という大きな石碑があり、期せずして水路名を知ることができました。
*北豆田から日田神社へ*
石積みの美しい水路はしばらく続き、右手の山の端には田んぼが残っています。
しばらく歩いたところで忽然と暗渠になり、住宅地になりました。
次の目的地は、日田市の西側を流れる花月川から取水した水路で、そばにある日田神社を目指します。
約1kmほどですが、しだいに気温も上がって暑くなってきた上に住宅地だけの場所は辛いなあ、それなら少しでも緑の多い場所を歩こうと、北豆田交差点から山側の道へと入ってみました。
暗渠から水の音が聞こえてきます。
もしかするとと期待した通り、地図には描かれていない水路網と田んぼが多く残る美しい集落でした。
先ほどの小ヶ瀬井路からの水でしょうか。
途中、大きなお城のような蔵のような建物があり、なんと九州電力の施設で、この地域の雰囲気にあった造りでした。
畑には初夏の花が咲き、良い香りが漂っています。
田おこしか終わったばかりの田んぼで、このあたりの田植えはいつ頃でしょう。
稲が風にそよぐ風景を想像しながら歩いていると、道の反対側に神社が見えました。
水路のそばにあるので水の神様かそれとも稲荷神社かと思っていたのですが、日田神社は相撲の神様で境内に土俵がありました。
*おまけ*
田んぼに由来した地名かと想像していたのですが、Wikipediaの「地名の由来」を読むと、ちょっと違うような感じです。
そして「産業」の中にこんな説明がありました。
農業は、広くまとまった耕地が確保しにくいため1960年代以降、米作中心から梅、栗、キノコなど山間地に適した作物へ転換を始めた。販売や観光と組み合わせる6次産業化にも力を入れている。
「米のあれこれ」まとめはこちら。