水のあれこれ 428 日田の「小ヶ瀬井路の碑」

大原八幡宮の境内にあった石碑の「小ヶ瀬」に、ゆふ号が日田駅に到着する少し手前で目を凝らして玖珠川を眺めていたあの場所とつながりました。

 

車窓から見える玖珠川の300mほど下流に小ヶ瀬(おがせ)町があり、その玖珠川右岸から取水されているように見える水路が小ヶ瀬神社の前を通って流れ、小ヶ瀬橋の先で暗渠になって山をくぐっているのでしょうか、その後、日田市日高で二手に分水されているように地図では描かれています。ここが気になっていたのでした。

大山川と玖珠川が合流して三隈川になる少し上流です。

 

さて、境内にある大きな石碑は一面いっぱいに説明が書かれ、興味深いことに側面の30センチほどの面から石碑の背面まで説明文が続いています。

だいぶあちこちの石碑を見ているこの頃ですが、側面にまで文章が刻まれている石碑は初めてでした。

 

 

   小ヶ瀬井路の碑

 

 井堰・水路を造り玖珠川の水を利用し始めたのはいつ頃からであろうか。小ヶ瀬井堰より前にあった大井手井堰から造られた初めの年代は分からないが、享保六年(一七二一)に代官所の御手当(補助)を受けて修復がおこなわれたときの記録があるので、享保以前に造られたことは明らかである。慶長年間にあった井手村の名は、井手すなわち井堰の存在を物語っているので、井堰による玖珠川の水の利用は、さらに時代をさかのぼるものであろう。

記録から見ると、大井手井堰は松材、米、銀子などの補助を役所から受けて、上井手・下井手・刃連・田島・竹田・左手・堀田の七ヶ村の農民が協力して造り、また度々修復したことが分かる。また城内・中城・陣屋廻・十二町・友田・渡里の六ヶ村は、宝永六年(一七〇九)城内井堰を設けて花月川の水を取り入れたとの記録があるが、それ以前に花月川の水を取り入れていた。然し両井堰から取り入れる水量は不足勝ちで、前記十三ヶ村に稲作の面積を制限され又旱害に苦しんだ。特に田島村は土地が高く、井路の水が殆ど利用できず、天水に〇〇〇(読めず)有様で水不足のため不作が続き、生活に困った農民は村を去り農家戸数と人口の減少がひどかった。このような状態から抜け出すためには、大井手の上流小ヶ瀬に井堰を設け新しい水路を造り、多量の水を取り入れることが必要であった。文政八年から八、九十年前の代官岡田庄太夫以来、揖斐十太夫三河口太忠らの郡代は、そのような計画を考えた。然し堅岩の一つである源ヶ鼻や会所山に隧道を造り水路とすることは難工事で多くの経費がかかるので計画に取りかかることができなかった。その難事業に着手する決断をしたのが郡代塩谷大四郎である。

塩谷郡代は、中城村の二人庄屋である博多屋久兵衛・〇(読めず)屋忠右衛門に工事計画について調査を命じた。二人は田島村庄屋と共に以前の計画絵図を調べ、また実施についても調査し、残る十一ヶ村の庄屋とも相談した上で工事に着手するよう郡代に進言した。こうして新井堰・井路の事業が文政六年四月二十日に始まった。初めは測量をして絵図を作り、なるべく田地を潰さぬように、また水行・水続きを計算にいれて井路のコースを定めることが当面の仕事であった。また必要な労力・資材・資金集め等の計画も立てねばならなかった。それらの計画に賛同した十三ヶ村の庄屋・組頭・百姓代が連印の書附を以て計画の実行を日田郡役所に願い出たのは、文政七年二月のことである。そして三月初めから本格的工事が始まった。久兵衛・忠右衛門の二人が中心になって事業の推進に献身的に当り、工事現場の要領は武田村の魚屋長八が勤めた。源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの二、二二二メートルの間が工事の中心で、水路を通すため隧道を掘る工事がその大部分であった。源ヶ鼻の堅岩は一日に僅か二、三寸しか切り貫けないほどの難工事であった。また会所山の隧道工事は酸素不足や落盤事故で苦しみ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を掘り、また隧道の両側に石垣を造りその上に平石を置き、あるいは合掌式に組み合わせて落盤を防いだ。山すその隧道では明り取りの穴を掘り、平地では土地を潰さぬため水路を暗渠にする工夫もした。この小ヶ瀬井路の工事には、雇われた石工・石組師・大工・雇いのほか、十三ヶ村はもとより日田郡の他の村々から割り当てられた農民が人足とすて出て働いた。その人足にもわずかながら賃銭が支給された。人足は多い時には一日に二百人以上出て、定められた分担区域で働いた、日田御役所の役人も亦、ほとんど毎日交代で工事現場を巡視した。人件費や材料・器具の購入費は十三ヶ村の出資と隈町・豆田町及び日田郡篤志家の寄附金でまかなわれた。御役所からの補助の有無は明らかでない。工事は時には昼夜兼行で進められ、文政八年(千八百二十五年)四月二十日通水、翌二十一日塩谷郡代出席のもとに大原八幡宮で盛大な通水祝祭がおこなわれた。なお完工には数年を要したと言われている。この井路で十三ヶ村の水掛高は米にして約千三百石増加し、田島一村で五百二十石の増加であった。天保十一年隈町の山田作兵衛(五百両)豆田町の廣瀬久兵衛・草野忠右衛門(各二百五十両)の寄附金千両の基金の利子と十三ヶ村の負担金で、その後、井堰・井路の修理がおこなわれて来た。

 大正九年小ヶ瀬井路普通水利組合が設立され、昭和三年大井手井路水利組合と協力し、九州電力株式会社との話し合いの結果、昭和十二年六月からサイフォンによる安定した水量毎秒六十個が確保され、度々の修復に苦しんだ井堰も不要になった。小ヶ瀬井路の管理は、昭和二十七年から日田中央土地改良区が行なっている。

    昭和六十年三月八日  日田中央土地改良区建立

 

 

たまたま田んぼがありそうな地名の「田島」から水路沿いに隈町まで歩き、九州電力の蔵のような施設と周囲の田んぼを眺めたのですが、偶然にもこの壮大な歴史に関わる場所と重なったのでした。

 

*「川の下に川」へ、改修工事*

 

読み応えのある大きな石碑のそばに、もう一つ記念碑がありました。

 

小ヶ瀬井路改修記念

 

小ヶ瀬井路

 小ヶ瀬井路は江戸時代の後期に造られたかんがい用水路である。三芳発電所用水路より玖珠川河床をサイフォンで取水し日高、田島、北豆田、竹田地域の水田60ヘクタールを潤し三隈川、花月川を囲む市街地中心部を網羅し南豆田、十二町、友田まで流下する幹線延長4,500mの水路である。大部分がトンネルで、開削当時の素掘のままで崩落の危険があり、崩落土による通水障害や住宅地へ湛水被害などの恐れがあるため早期の改修が望まれていた。

事業の目的

 老朽化した用水路を改修して安定した農業用水、さらに生活用水の供給と災害の未然防止

事業の概要

 事業名/農地防災事業(用排水施設整備工事)

 受益面積/水田70ha

    受益戸数/433戸

 事業内容/トンネル巻立工 L=1,621m

      トンネル三方張 L=219m

 事業年度/平成3年度〜平成10年度

 総事業費/513,500千円

 助成機関/農林水産省 大分県 日田市

 事業主体/大分県 設計監理 日田地方振興局耕地課

 監理主体/日田中央土地改良区

 施工業者/田中建設(株) 佐藤建設(有)

 

「小ヶ瀬井路の碑」に比べると、カラーで地図や構内の写真が添えられた石碑でしたが、残念ながら藻と経年劣化で少々見づらくなっていました。

それでも江戸時代から現代までの歴史がわかり、開渠部分が少なくなった今もなおこの地を潤している玖珠川からの水路の存在がわかる記録でした。

 

三芳発電所用水路」、どこだろうと地図で確認すると、小ヶ瀬の取り入れ口の蛇行部分からもう一度蛇行した下流約1kmの玖珠川左岸に発電所がありました。

地形や歴史背景は異なるのですが、ふと富士川用水を思い出しました。

現代の「用水路」というのはほんと、複雑ですね。

 

 

*おまけ*

小ヶ瀬井路は文政6年(1823)年に工事開始されたようですが、この石碑から思い出したのは深良用水の息抜き穴です。こちらは寛文10年(1670)ですから、江戸時代初期にはすでにこうした技術があったようです。

 

「酸素不足」「竹筒で空気を送り」とさらっと書かれているのですが、現代では当たり前の酸素の存在とどうやったら事故を防ぐことができるか、いつ頃からこうした方法が確立したのでしょう。

日頃、「酸素」が体にもたらす影響を意識しながら医療の仕事に携わってきたというのに、そういえばヒトが酸素の存在を突き止めたのはいつだったっけとググってみました。

Wikipedia「酸素」の「発見」によれば、1774年イギリスのジョセフ・プリースのようです。

 

「酸素」、現代では当たり前のように「知っている(つもり)」の言葉ですが、そこに行き着くまでどれだけの失敗や犠牲があったのだろう、そして酸素一つとっても驚異的に変化する時代だったと気が遠くなったのでした。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

失敗とかリスクについてのまとめはこちら