最初は水路名さえわからないままに訪ねた日田市の小ヶ瀬井路(おがせいろ)ですが、廣瀬久兵衛という名前からさまざまな歴史を知ることとなりました。
農林水産省のホームページにもまとめられています。
農業水利施設の礎を造った広瀬久兵衛
大分県日田市
1816年(文化13年)、広瀬久兵衛が28歳の時、天災・地変がつづき、人々は大飢餓に苦しんでいました。久兵衛は、日田代官に着任した塩谷大四郎に抜擢されて、「小ヶ瀬井路」に着手しました。
当時、この地区の人々は干ばつに悩み、作物の収穫も不良でした。その現状をなんとかしようと努力し、村人の協力も得て、苦心の末3ヶ月の歳月をかけて小ヶ瀬井路を完成させました。これにより用水を受水する地域は、併せて13ヶ村、2,357石余りとなり、畑が田に変わった村や天水、ため池、湧水に頼っていた村は効用が大きかったようです。
日田の土木工事が一段楽すると、塩谷大四郎の命により、県北地域の干拓事業を開始し、周防灘沿岸の14新田と宇佐の広瀬井堰(第3次)の工事に関係しました。
久兵衛は、各地区の工事が始まると現地に住み、毎日工事現場に通うとともに、笠をかぶり、雨の日も風の日も土工と一緒に働いたといわれています。
久兵衛は、掛屋(現在の銀行)として理財の敏腕を持ちながら、公共奉仕の心を持っていました。出資する立場でありながら、農業用水、干拓、塩田道路などの工事を直接指導することにより、成功に導きました。
決意を持った人間なら、どんな困難な事でもやり遂げられると信じていたようです。産業を盛んにする土木工事により、地域振興を成し遂げた郷土の偉人です。
(「土地改良偉人伝〜水土緑を拓いた人びと〜」より、強調は引用者による)
「理財の敏腕を持ちながら、公共奉仕の心を持っていました」
まさに「知識の人」(財力や労力を寄進した人々)であり、日本の農業というのは行基さんやそれ以前からもこうした流れが盤石になっているのではないかと思うこの頃です。
そして、行基さんもまた政争と動乱、飢饉と災厄など、混迷の真っ只中にあった行基さんの時代と同じように、廣瀬久兵衛の生きた時代も江戸時代から明治へ、そして災害や飢饉が多かった時代で、こういう時に「公共性」というのは大きく進歩するのではないかと、現代と重ね合わせながら読みました。
*周防灘の干拓地とつながった*
廣瀬久兵衛、聞き覚えのある名前のような気がしていたのですが、この「県北地域の干拓事業」でつながりました。
豊後高田のあたりの周防灘沿岸の干拓地らしい場所が気になっていつか訪ねたいと思っていたのですが、2022年7月初旬に九州を訪ねたときには残念ながらソニックの車窓から眺めただけでした。
検索すると、「広瀬久兵衛(ひろせ きゅうべい)とその業績について」(一般社団法人九州地方計画協会)という先人の記録が見つかりました。
広瀬久兵衛は豊後国日田郡豆田町(現在の日田市)において、商家・博多屋広瀬三郎右衛門の三男として、寛政2年(1790年)に生を受けました。久兵衛は掛屋(*)として理財の敏腕を持ちながら、公共土木工事家、諸藩の経営コンサルタント等多彩な能力を発揮し、多くの社会貢献と地域振興を果たした郷土の偉人です。
(*掛屋とは天領から上がる税金を扱い運用した所)
兄は広瀬淡窓で、儒学者として名声を馳せ、咸宜園(かんぎえん)という私塾を創立し、高野長英や大村益次郎等の著名や人物を輩出しています。
淡窓は幼少の頃から病気がちであったため家業の後継を断念したことから、兄に代わって久兵衛が家業を継ぎました。
久兵衛は日田郡に代官として赴任した塩谷(しおのや)大四郎のもとで、小ヶ瀬井路の開削や周防灘沿岸の新田開発等公共土木工事の任務を遂行しました。
小ヶ瀬井路は総延長2,754m、日田市小ケ瀬町の玖珠川から取水し、豆田町を抜け、再び楠川の支流に流れ込み、水田約500haを灌漑しています。この水路は日田市内を血管のように流れているため、日田市が水郷(すいきょう)日田と呼ばれる由縁になりました。
文政6年(1823年)久兵衛は日田郡代となった塩谷大四郎に願い出て、農業用水路として小ヶ瀬井路の開削に着手しました。久兵衛の従兄魚屋(うおのや)長八が工事の専任監督となり、多大の苦労を重ねて、文政8年(1825年)12月に竣工しています。
この水路には隧道が約900mありますが、堅固な岩盤のために掘削工事が進まず、20日間でわずかに2.6mしか進まなかった箇所もあったと伝えられています。
この当時、干魃による飢饉が多発し、人々は苦しんでいましたが、井路が完成したことにより用水を受給できる村は13ヶ村、畑が水田に変わり、天水頼み、湧水頼みであった村の農業生産は飛躍的に向上しました。
また、この水路が出来たことから、町の中心部を流れていた中城川の水量が増えたため、かねての懸案であった三隈川通船計画が実行され、日田地方から水運によって筑後地方に水上貨物がはじめて運送されました。
<新田開発、干拓工事>
農業、とりわけ稲作は幕藩体制を支えた生産基盤をなしていました。
新田開発や農業用水路の開削が盛んに行われていましたが、通常の場合は切り土、盛り土による小規模な開発が主でありましたが、近世後期には沿岸部の浅海部を堤防によって締め切り、広大な干拓地に新田を開発するようになりました。
小ヶ瀬井路の開削が完成に近づいた頃、塩谷の指示により久兵衛らは周防灘に面した宇佐市や豊後高田市の沿岸部一帯の広大な新田開発に乗り出しました。
中でも、呉崎新田は360haと他を圧倒する大規模なものとなり、久兵衛は文政9年(1826年)に着手しました。
当時、この地は遠浅の沿岸に沼や沢が遠く連なり、一面に雑草が生い茂り、荒涼とした湿地帯でありました。
塩谷は、これらの湿地帯を埋め立てて農地開発を行えば、大きな国益になると考え、幕府の許可を得て、着工しました。
しかし、幕府の命によった工事であれば、補助金も得られたでしょうが、この工事は日田、玖珠、直入、下毛、国東の5郡が引請けとなり工事金が徴収されました。
この呉崎新田は文政9年3月23日に着工し、干拓面積約360ha、南北3,486m、東西86m、堤防延長4,806mで文政12年(1829年)に完成した県下最大の干拓新田です。総工費3万両、人夫33万人であったと記録に残っています。
完成後、数年を経て、広島県などから続々入植があり、開墾が進みました。明治の初めには戸数が250戸、人口が1,000人を超えるくらいになり、自治の1区画を形成しました。
また、昭和21年からは終戦後の食料増産を目的に国営干拓事業として、呉崎新田よりさらに前方に広がる沿岸部の事業が実施され、35億円を投じ昭和44年9月、23ヶ年の年月を経て592haの新干拓地を完成させています。
呉崎新田と併せて、ほぼ1,000haとなり、現在では白ねぎや葉たばこ、ぶどう、肥育牛等県下有数の農業地帯を形成しています。
宇佐市では浜高家(はまたかけい)新田、乙女新田、順風新田、高砂新田、郡中(ぐんちゅう)新田、神子山(みこやま)新田、沖須新田、岩保(いわお)新田、久兵衛新田、南鶴田新田、北鶴田新田等を手掛け、指揮監督に奔走しました。
それぞれの開発とも、難工事を極め、事業費の捻出や農民からの賦課金の徴収など多くの課題を伴い、苦難の時期を乗り越えてきました。
久兵衛新田(6.2ha)は久兵衛自身が引請け人となり、工事費の3分の2を出資したおので、塩谷郡代が久兵衛の功績を讃えて、この名が付けられました。
その後、大事業を遂行した久兵衛の話が伝わり、近隣の諸藩は彼を招へいし、灌漑用水や財政再建等を託し、改革発展に尽力しています。
府内藩の財政顧問となった久兵衛は日田と大分間を往来し、財政改革を果たし、府内藩の財政は大いに豊かになりました。
久兵衛は大規模な農業水利工事や通船事業、諸藩の財政再建、窮民に対して慈善救済事業に取り組むなど、慈愛の心を持ちながら世の中の発展に尽くした偉人として、後世に語り継がれています。
あの美しい「歴史の小径」で出会った広瀬淡窓とつながったのでした。
それにしても、郷土の先覚者や偉人というのは水路や農業の歴史の中で生まれてきたようですね。
あちこちにこうした偉人の業績の記録と実際に水路が今も残って語り継がれているのですから、農業はちょっとやそっとのことで見てくれが偉そうな人や口だけが上手い人あるいは金儲けだけの人にはなびかないような気がしてきました。
*おまけ*
もう一つ、とても参考になったのが「大分県の歴史的農業水利施設Ⅱ ー美しい農業施設<農業用水路・ため池他>ー」でした。
*「広瀬」と「廣瀬」は原文のままで引用しました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
あわせて「米を投機的に扱わないために」もどうぞ。