水のあれこれ 429 小ヶ瀬井路と中野川の「先人の記録」

小ヶ瀬井路(おがせいろ)の歴史と流れはだいぶ把握できました。

ひとつ気になっているのは、日田駅の南を流れる八重桜の名所の中野川はどこから水が来るのか、ということです。

 

地図で最初に見た時には、玖珠川右岸から取水された水路が山をくぐって出てきた「日高」のあたりに、この中野川と交差する水色の線があるのに気づきました。

ですから、小ヶ瀬町で取水された水が分水されて中野川になるのかと想像していたのですが、小ヶ瀬井路の石碑や資料を読んでも、中野川の名前は出てきません。

 

これはどういうことでしょうか。

中野川が気になり検索してみると、これまた源流まで歩いた方の先人の記録がありました。

 

*中野川の源流を歩いた先人の記録*

 

「こちらは北部九州にある盆地「日田」です」というブログに、中野川の水源は小さな湧水が源流になり、水田地帯を潤していることが書かれていました。

その湧水の写真に心が躍りますね。

 

そしてもうひとつ「小迫の谷水」も源流だそうで、そこを訪ねた記録がありました。

中野川のもうひとつある源流 谷水

前回は中野川の源流である「むくむく谷」と「モクモク水」について書きましたが、ついでに探検していた中野川源流があります。それが今回のお題である小迫の谷水です。

場所がカタカナ語で教えにくいんですが、桃山町方面から天領大橋を渡り求来里へ進みます。JR・九大本線を渡ると左カーブに橋があります。その手前に右下に行く道があります。

この写真にある水田地帯は一丁目地区と呼ばれています。左右に山が迫る、細長い三角形の様になっていますが、こういう地形をさこと呼ぶそうです。これについては、マタ別の機会に説明しましょう、とりあえず、先に進んでみましょう。(中略)

先に進むと道は濡れています。水が流れているのです!源流っぽい!道の右端には溝があるのですが、水はホトンド流れていません。不思議な風景です。

先に進むとコンクリート舗装から道は砂利道となります。すると轍には水たまりが。左の轍をみると・・・カナリの量の水が流れ出ています。雨水ではなく湧水である事は、この晴天からもわかります。

小学生の頃に湧水やそれが山の中で沢になる場所で遊んでいたことを思い出す光景です。

 

この湧水は谷水と呼ばれ、この地名を小迫と呼ばれるようです。

この谷水が手前の一丁田地区に広がる水田を潤しています。モクモク水と、この谷水、それに豊後三芳駅の東にある東寺堤からの水が合わさり市街地に流れ中野川となるのです。

たしかに地図では東側の山から細い2本の水色が描かれていて、それが合流して中野川になっています。

こんな湧水だけで水田を潤すのですから、日田は水が豊かな場所なのだと思って読み進めると、最後にこんなことが書かれていました。

日田市は四方を山に囲まれた盆地です。市中心部を三隈川などの河川が流れ、水には苦労しない印象がありますが、市の中心部では水の確保に苦労する時代が非常に長く続くのです。ただし、盆地の周辺にあたる土地は、台地や山から湧き出す水源が多くありました。昔の農家は、このような湧水を利用して稲を栽培していたのです。

しかし、江戸時代、日田市内の農家は三隈川などを水源として利用しにくい土地だったので、干ばつに悩まされ続けるのです

水郷・日田と言われるのに、意外な事実ですね。さあ、どうする、日田!

 

中野川の水源がわかっただけでなく、江戸時代の日田は三隈川(筑後川)などを水源としにくい土地だったということも知ることができました。

 

 

*小ヶ瀬井路を歩いた先人の記録*

 

小ヶ瀬町にある玖珠川からの取水口を訪ねてみたかったなあと思っていると、実際に歩いた方の記録がありました。

「みさき達人"長崎・佐賀・天草etc風来機構"」というブログで、かつての取水口のあたりの写真から、会所山の隧道の入り口、そして日高地区を流れる様子など、写真がたくさん掲載されていました。

どうやら地図で中野川と交差している水色の線はサイフォンで、小ヶ瀬井路が交差しているようです。

 

ブログ主の方は先人が行き交う古道に関心があり、九州のあちこちを歩かれていたようですが、10年前に急逝されたようです。

またすごい先人の記録と出会いました。

 

 

*小ヶ瀬井路ができて水郷(すいきょう)日田になった*

 

三隈川のそばに広がる日田は、水害のためにさぞかし高い堤防があるのだろうと想像していたのですが、実際に歩くと川面から1~2mほど嵩上げされただけでした。

水郷というと川や海の低湿地帯をイメージするので、それで日田も川のそばで水とともにある生活だったのだろうと納得しました。

ところが「三隈川などを水源として利用しにくい土地だった」というのはどういうことなのでしょうか。

 

「大分県の歴史的農業水利施設Ⅱ」にその答えがありました。

 天領日田に文化14年、西国郡代、塩谷大四郎正義が着任した。彼は郡代として殖産興業に力を入れた。

 塩谷代官は、廣瀬久兵衛、他の掛屋と共に水路開削工事を行なった。その小ヶ瀬井路は、現在もかんがい用水路としての役割を担っており、日田市内を小水路が血管のように流れ、日田市が水郷日田をいわれる由縁ともなっている

(「02 小ヶ瀬井路」、強調は引用者による)

 

小ヶ瀬井路ができたことで、人の力で「水郷(すいきょう)日田」が生まれた。

そういうことだったのかと理解できました。

 

地図を眺めて気になったところを訪ねると、必ず先人の記録に出会い、その歴史や地形を知ることができるのですからほんと、すごいですね。

これもまたこの国の底力ではないかと思うこの頃です。

そして帰宅してこうして記録を書いていくうちに、また地図が立体的に見えるようになるおもしろさにはまっていくのでした。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

合わせて「お米を投機的に扱わないために」もどうぞ。