また寄り道をしてしまいましたが5月初旬の遠出の記録の続きです。
水郷(すいきょう)日田の水路沿いをくまなく歩いてみたいと後ろ髪をひかれながら、駅に戻りました。
木壁やベンチの美しく落ち着ついた待合室で待っていると、列車が到着しました。1両のワンマンカーなのにたくさんの人が下車して、折り返しでまたすぐに満席になりました。
久大本線の真っ赤な車体、美しいですね。
七尾線の濃いローズ色とか山陽本線の鮮やかな黄色とか、関東ではあまりこうした明るいはっきりとした色は少ないですから、乗ったら外見の色は見えないのになんだかワクワクするのでした。
無事に左の窓側の席に座ることができ、20分ほどの車窓の散歩です。
10時42分、列車が動き始めました。
*三隈川から筑後川へ名前が変わる場所*
市街地を抜け、花月川を渡ると大きくカーブしながら川沿いの田んぼのそばを走り光岡駅から北友田駅までは花月川右岸を走ります。白壁と灰色の瓦屋根と初夏の緑と、美しい風景です。
北友田駅から数百メートル先に、三隈川本流に庄手川と花月川が合流する場所があります。見逃さないようにと集中しましたが、想像よりはゆったりとした流れでした、
ここから地図では三隈川のそばに線路が描かれていますが、トンネル区間が多く、抜けた時には湖のような水面になっていました。
夜明ダムのすぐ上流です。
「夜明」という不思議な名前は以前から耳にしていましたが、2017年にどこだったのかはっきりわかりました。
夜明駅は川よりも高台にありました。その先の大肥川(おおひがわ)のあたりで「川合に神社」とメモしていたのですが、地図には載っていないようです。
またすぐにトンネル区間に入りました。
トンネルを出ると湖面のような三隈川が見え、地図ではこのあたりから三隈川の真ん中が大分県と福岡県の県境のようです。
それでもまだ川の名前は「三隈川」で、いよいよ夜明ダムの本体が見えてきました。
当日、ダムの写真を撮ったような気がしていましたが、日田駅で赤い車体の写真の次は下車したうきは駅の駅舎でした。
きっと予想以上に乗客が多かったのでシャッター音をためらい、まぶたに焼き付けようと車窓に集中したのだと思いますが、案外風景の記憶はぼんやりです。
Wikipediaがあってよかったと思いながら、夜明ダム本体の記憶が少し戻りました。
*夜明ダム*
Wikipediaの夜明ダムの歴史を読むと、やはり昭和28年の水害は「古今未曾有の豪雨」だったのですね。
夜明ダムは1952年(昭和27)着工、1954年(昭和29)に竣工とあり、工事の真っ最中の災害だったようです。
また、あの2017年の災害では「管理所が流出」したとあります。
そしてWikipediaの最後にこんな説明がありました。
また、ダム建設によって江戸時代より日田〜大川間を結んだ筏船は途絶し、さらに1676年に田代重栄によって建設された「筑後川四大取水堰」の一つである袋野堰が水没した。
ダム(堰)が造られることによって、生業が途絶えるという葛藤がある。
あの庄川合口堰堤の歴史や四半世紀ぶりに川原湯温泉を訪ねた日を思い出しました。
世の中が驚異的に変化する際に新しい変化に水を差すようなことは嫌われがちですが、やはりそれぞれの「葛藤」をなかったことにしてはいけないし、記録し伝えられていく必要があるのかもしれないとこの説明から漠然とながら思ったのでした。
*筑後川中流域へ*
夜明ダムの先からは「筑後川中流域」になります。
三隈川から筑後川へ変わるあたりを見てみようと集中したら、ダムのそばが片側の切り通しになり、すぐにトンネルに入ったのでした。ああ。
トンネルを出るとそれまでの山に囲まれた風景から一変して河川敷も広く、美しい筑後川の鉄橋を渡って左岸側へと列車が進みました。途中に沈下橋が見えました。
地図ではこのあたりまで、川の真ん中に県境が引かれています。どんな歴史があったのでしょう。
左岸側はなだらかに山へと続き、線路はやや小高い段丘の上を走っているようです。
筑後大石駅のあたりは麦畑が広々と広がっていました。
三隈川から筑後川への車窓の散歩が終わりました。11時02分うきは駅に到着し、初夏の風景に映える真っ赤な久大本線を見送りました。
「散歩をする」まとめはこちら。