米のあれこれ 132 うきはの田んぼと大石水道の記録

JR久大本線うきは駅に到着しました。なんとも愛らしい木造のこぢんまりした駅舎です。

お手洗いを使わせてもらいましたが、同じく古い木造なのにピカピカに掃除されていて「ニホン、スゴイ」と思いました。

 

駅の前に、2013(平成25)年に立てられた小さな案内があります。

うきは市標高ポイント  JRうきは駅 標高43m

 うきは市の地形は標高差に富み、美しい景観が魅力です。一方、この標高差は棚田など傾斜地の管理の難しさなどにもつながってもいます。

 うきは市の個性ある景観の保全としていくため、標高差について理解を深めようと、「標高差を活かしたうきは景観保全啓発事業」により、この看板を立てました。

 

ひらがなで「うきは」ですが、この辺りは筑後川が何度か蛇行しているので、おそらく「羽」に由来するのだろうと想像した通り、1896(明治29)年に「浮羽郡」として始まったようです。

平地の広がる「羽」を想像していたのですが、「標高差に富み」の通り、南側の山へは上り坂になっていました。

 

さて、うきは駅で下車したのは隈上川(くまのうえがわ)沿いにある水神社を訪ねようと思ったからです。

駅のそばは少し住宅がある程度でしたが、駅舎の前にある「Ukiha Map」を見ると、湧水や古墳や土蔵など見どころがたくさん書かれていました。ああ、しまった。ここも2泊ぐらいしたいですね。

 

 

*美しい筑後川両岸の風景を眺めながら歩く*

 

気を取り直して、計画通り水神社へ行きましょう。

踏切を渡って、緩やかに下ってしばらく歩くと、田んぼに水路に真っ黒な瓦屋根の住宅と美しい風景です。隈上川の堤防沿いの道路が見えて、その向こうには筑後川右岸の山も見えます。

対岸の山の中腹に巨大な鳥のオブジェが見えたような気がしたのですが、角度が変わったらどうやら観音様でした。地図で確認すると香山昇龍大観音のようです。

 

しだいに川風が強くなってきました。支流でこれだけの風ですから、本流では吹き飛ばされるでしょうか。

日傘をさしたり閉じたりしながら無事に歩けますようにと祈っていると、水神社の鎮守の森が先の方に見えてきました。

 

五月晴れに、隈上川の水面も真っ青で美しく、筑後川対岸まで広々とした場所です。

美しい風景とともに、日田盆地から夜明付近の狭隘な場所を抜けた筑後川の怒涛の水が一気に広がる様子を想像したのでした。

 

 

*大石水道*

 

と、隈上川の堤防の道へ下からの道が合流する水田地帯のすみに、何か大きな石碑があります。

その土台に埋め込まれた白い石に何かの記録が彫られていました。

我ガ千年村ハ現ニ坦々タル沃土ヲ控エタルニ拘ハラズ大石水道ノ灌漑區域以外ハ主トシテ柳野川及ビ山間部ヨリ来レル不充分ナル水量ニ依リ灌漑するが為メニ若シ旱魃時ニ際センカ養水涸渇シテ田面亀裂シ収穫殆ンド皆無ノ惨状ヲ呈スルコト往々ニシテ之レ有リ豈亦遺○(読めず)ナラズヤ故ヲ以テ先輩之ガ救済策ヲ講ジ疏水計量ヲ企テタルコト一再ナラザリシモ毎ニ他町村トノ関係上○(読めず)議纏マラザルヲ如何ニセンサレド荏苒(*ジンゼン)空久時機ヲ待ツベキニアラザルヲ以テ村長佐藤準蔵○(読めず)然起チテ志士ト相○(よめず)リ去ル明治四十四年二月大石水道本線タル大石村大字古川字染ノ地ニ一ノ分水口ヲ設ケ導水路約一千間ヲ開鑿シテ宮田溝ニ補注セシメンコトヲ期シ大石水道関係町村組合會ニ交渉シ同年九月一日其ノ承諾ヲ得テ○○○○○○○(読めず)翌四十五年三月二十三日関係地主會ヲ開キ○○○○(読めず)ヲ協定シタリ而シテ本事業ハ耕地整理法ノ下ニ起工スベク改メ更ニ地主ノ同意ヲ得テ大正元年八月五日開路本縣知事ヨリ耕地整理組合設置ノ○(読めず)可ヲ承ケ組合長ニ佐藤準蔵副組合長ニ米倉長七評議員ニ佐佐木圓吉國武次四郎石野大一古賀長次郎當選シ其ノ後ハ専ラ起工準備事務ニ鞅掌シタルガ同二年夏季ニ及ビ○○(読めず)三十七年木ノ偏現象ト謂フベキ大旱魃ニ遭遇シテ○○(読めず)通過地タル一部ノ抗議ヲ馴致(*ジュンチ)シ敷地収用ニ関シ組合長以下苦心惨憺幾多ノ曲折ヲ經テ終ニ合意的収用ヲ了シ同三年一月十一日ヲ以テ起工式ヲ挙ゲ再来四○(読めず)年ニシテ同六年十月竣工を告ゲタリ後チ役員中缼員ヲ生ジタルヲ以テ副組合長二米倉重七評議員ニ松田大策野田○(読めず)三郎何レモ補充セリ工事ノ實施ニ當リテハ林唯次ヲシテ之ヲ○○(読めず)シ最善ヲ盡サシメ導水路幅三尺六寸乃至五尺○(読めず)長ハ八百三十間分水口ヨリ柳野川西側ニ至ル約四百間ハ鉄筋浸凝土堅道ニ據ル工事額二萬八千百余圓之ガ為メニ灌漑ノ便ヲ加へタル水田ハ八十余町歩地債騰貴ニ伴へル一時的利益ト算スベキモノ約五万七千圓毎年増収ニ由ル永久的潤益實ニ四千七百圓内外ナリ是ニ於テ積年ノ遺憾始メテ排除シ双互ノ意思水ト倶ニ○(読めず)通シ有形無形ノ惠澤ハ自今而後子孫ニ傳ヘテ無窮ナラントス聖代ニ慮シテ此ノ微積ヲ目観スル者誰カ謳歌セザランヤ

大正十三年三月  石井眞太郎 撰

         熊抱開男 書

         山北石工 江藤虎太

(*は引用者によるふりがな)

 

柳野川の水が頼りだったこの千年村の地に、1904(明治37)年頃の大旱魃を機に大石水道という灌漑施設を整備しようとした記録でしょうか。

「水枯渇して田面亀裂し殆んど収穫がなかった」

最近の各地の「田面亀裂し」の様子に重なりました。

 

1911(明治44)年ごろから灌漑用水を建設するための耕地整理組合の役員が選挙で選ばれ、周辺の地域との協議や土地・資金の確保に奔走されたことが書かれているようです。

1914(大正3)年、ようやく灌漑水路の建設が始まり、「鉄筋浸凝土堅道」は明治終わり頃からのコンクリートの普及によるものでしょうか。

 

この灌漑用水による受益地は八十町歩。

どれくらいの広さでしょうか。この隈上川左岸の1kmくらい西側に「吉井町千年」という地区があるのですが、その辺りを潤したのでしょうか。

 

この灌漑用水のおかげで毎年安定した収入が得られ、「積年の遺憾」もなくなった。それはどんな意味だったのでしょうか。

 

110年ほど前の灌漑用水建設のための苦労などが、こうして水田のそばに正確にあるのが日本の農地だとまた感慨深く読みました。

それにしても当時の農村というのは話し合いを経て共同で何かを作り上げていき、この難しい漢字や文体できちんと記録に残す人がいる、すごいことですね。

 

私が子どもの頃の「遅れた農村、閉鎖的な農村」のようなイメージは、全くもって違うのだと思うことが増えました。

とても民主的で、協力しあって問題解決し、さらに失敗も含めて記録する。

まことに進歩的なことが浸透していたのではないかと。

あのイメージはどこから広げられたのでしょう。

 

 

「ずっと此の微積を目観する者がいて謳歌することができるだろうか」

1世紀以上経ってふらりと立ち寄った人が読み、そしてまた次の世代に伝えていく。

水田が健在な理由ですね。

そんな田んぼと用水路の歴史をまた一つ知ることができました。

 

 

 

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