落ち着いた街 87 大石水道ができて361年後の風景

計画の段階では、筑後川に合流する川のそばに水神社と用水路があるのでちょっと見てみよう、そして筑後川を歩いて渡って山田堰へ行こうと、あまり深く考えないで訪ねてみた場所でしたが境内の下を大石水道が流れ、そしてこの地域の農政に貢献された人の記録を知ることができました。

 

さて、地図ではこの場所に「長野水神社」と「水神社」の二つが表示されているのですが、もう一つの水神社はなさそうです。

まあいいか、先を急ごうと、筑後川の堤防道路を目指しました。

 

堤防道路の左手には幅数メートルはあるでしょうか、広い水路がゆったりと少し蛇行しながら流れていて、その左岸にもう一つ社殿があるのが見えました。

どうやら地図とは場所がずれているのですが、あれがもう一つの水神社のようです。

訪ねるには時間が足りなくなりそうで、堤防道路へと上りました。

 

筑後川が悠々と流れているのが見えます。五月晴れの真っ青な空と真っ青な筑後川、そして緑の山並み、鳥肌が立つような美しさでした。

そして反対側には、先ほどの幹線水路がゆったりと流れ、その向こうにこれから田植えの時期を迎える水田と集落が散在している、これまた美しい風景です。

 

これは幸せな散歩だと思っていたら、この堤防道路は交通量の多い県道81号線で、前から後ろから車がひっきりなしにスピードを出して来ます。

歩道は申し訳なさそうに白線が引いてあるだけですが、車専用道路ではなさそうです。車が来るたびに立ち止まって「(こんなところを歩いてすみません。お先にどうぞ)」と会釈をして先に行ってもらったのでした。

そして柵がないので左によれば幹線水路へ、右へよれば筑後川の河川敷へと転落しそうになり、しだいに川風も強くなってきました。

美しい風景を楽しむどころか生きた心地がしないまま1kmほど歩くと、ようやく道路から集落へと入る道がありました。

ふ〜っ、助かりました。

 

堤防道路の下へ下りると、先ほどの水路が大きく曲がり、昔ながらの家々のすぐそばを流れています。水深は数十センチあるかないかぐらいで、水は澄んでごみ一つない水面です。

しばらく水路沿いに歩くとまた堤防道路へと上がる道になり、その先にある原鶴大橋を渡って筑後川右岸へと行く予定です。

 

この水路沿いをもっと歩いてみたいなと後ろ髪をひかれながら、西へと大きく向きを変える水路から離れて、原鶴大橋へと向いました。

 

 

*水をはかり分ける角間天秤だった*

 

訪ねた頃にまだマップでは表示されていなかったこの水路名ですが、最近、「北新川」と表示されるようになりました。

そしてちょうど西へ大きく曲がるあたりで、南新川ともう一つ3本の水路に分かれているようです。

 

「大石長野水道の開削と五庄屋」を読んでいて、「あ、この場所だ」とわかりました。

大石から流れ下った水はいったん隈上川に注ぎ、二つの水が合流して、西岸に設けられた水門で調節され、西の方へ流れ下って行く。隈上川はいつも水量が少ないが、一度雨が降ると急に増水して水勢が強くなる。そのため平水の時は堰を越えて筑後川に放水されるようになっている。長野の水門をくぐった水は、筑後川左岸堤防に沿って西下すること470間、角間村で南北両幹線水路に分かれる。この地点を、後世の人は水をはかり分ける意味で角間天秤と呼んでいる

(強調は引用者による)

 

そして現代の地図では「堤防道路の内側の水路」にしか見えないのですが、この開削のためにこんな過酷なことが行われていたことを、帰宅してから知ることになりました。

 

 監督に当たった作事方丹羽頼母は、見ただけでもぞっとするような5人分のはりつけ道具を取り寄せて、長野村の出入り口の人目につきやすい場所に建て並べ、万一工事が不成功に終わったならば、必ず五庄屋を刑罰に処するぞという気勢を示した。人々は、これに激励されて、「庄屋どんを殺すな」とばかり、土石の打起し、運搬と極寒の最中汗みずくで働いた。

 

若い頃なら「昔はなんとひどいことを」くらいの感想で終わっていたかもしれないのですが、年を経るにしたがって、その中の1人に自分の人生を重ねるようになってきました。

「命の重さ」なんて簡単に表現できない、何かもっと違う深淵に落ちて行くようなそんな感じです。

間違った権力を持った側の残酷さや傲慢さに対してでしょうか。

 

 

*さらに現代へ*

 

 

長野水神社にあった「竣工碑」の碑文を、帰宅したらゆっくり読もうと写真に収めました。

   碑 文

 寛文四年(一六六四)、五人の庄屋の発起に始まる灌漑水路建設はこの地に新しい生命線を創造、人々は長くその恩恵を敬仰してきたところであった。

 この後、筑後川中流域は大石・山田・恵利の三堰掛りい一円の先覚的な用水灌漑の歴史を背景に、代々優れた水田経営を続けてきたが、従来の水路は破損しやすく、施設も旧式で、補修や浚渫など多くの労力を要していた。

 このため、国営による筑後川中流域農業水利事業が計画され、一帯の約六千四百ヘクタールの耕地を対象とした大工事を昭和五十六年後の平成八年の春、漸く完工に至った。

 そのうち、我が大石堰掛りの灌漑面積は二千二百七十五ヘクタール、総工費七十一億八千万円、用水路延長は二一・九キロメートルに及ぶ史上最大の事業規模となり、新構造水路のほか自動機器設置など管理を合理化し、近代的な営農の基礎を固めて、今後の飛躍に備えた。更に用水路の持つ歴史的景観に配慮した国・県営事業の玉石積護岸・遊歩道・水辺広場等、愛される親水空間としての環境整備にも寄与する等々、このようにして本事業は寛文以来の連綿と続く産業興隆・生活向上の源泉としての役目を受け継ぐことができたのである。

 幸いにしてこの事業の推進に当たっては、関係各位の真摯なご協力を戴き、少なからぬ困難を乗り越えての完成は誠にご同慶の至り、衷心より深く感謝に堪えない。

 ここに我々一同は、この業績の存続がいつまでも郷土にもたらすよう祈り、あわせて先賢の協同精神が今なお生きている証しとして、三百有余年前の父祖同盟約のこの聖地に、喜びの碑を建てるものである。

 平成九年三月吉日  浮羽郡 大石堰土地改良区

 

(強調は引用者による)

 

 

 

あの日に写した水路と社殿そして角間天秤のあたりは、五庄屋と人々が命を賭けた水路開削から361年後の落ち着いた風景でした。

 

そして全国各地の田んぼや水路のそばにあるこうした石碑に、「連綿と続く産業興隆・生活向上の源泉としての役目」や「先賢の協同精神」が記録されているのを読むと、奈良時代の財力や労力を寄進した知識と呼ばれた人々のことを思い出しました。

 

今、また新たな農業の大変な時代に入っているけれど、きっと連綿とつづく何かによって乗り越えて、やはり美しい田園風景が永劫続くだろうと思えてきました。

それを壊したい人たちは「もう日本の農業は続かないんじゃないか」とさかんに脅かしますけれどね。

私たちの生きる糧を作ってくださる人たちを大事にしない国は、滅びの道のように見えてきました。

 

 

 

 

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