水の神様を訪ねる 112 山田堰と堀川用水の水神社

山田堰展望台の公園内にあった「周辺史跡等案内図」に「水神社」を見つけました。

 

享保七(1722)年、取水口を現在の位置に変更するための水門工事の安全を祈願して建立されました。

計画の段階で、大きな堰だから水神社があるはずと思って地図を探したのですが表示されていませんでした。山側にある「恵蘇八幡宮」が水神社だろうかと想像していましたが、たしかに公園のすぐ先の河岸に鎮守の森らしい場所があります。

 

山田堰の石畳の先に水門があり、そこに大きな木に囲まれた社殿がありました。

筑後川の流れと山田堰から取水するようすが一望できます。

境内にはいくつかの説明板と大きな石碑がありました。

 

*山田井堰と堀川用水*

 

  山田井堰

 寛文3年(西暦1663年)筑後川に石堰を築き、樋をかけ、堀川を作り、筑後川の豊かな水を引き、150haの開田を行った。逐次改良を加え、寛政2年(西暦1790年)古賀百工が藩命により、筑後川に巨石を投じ、石畳の堰を作る大工事を行う。堰総面積25,370㎡、取水量も豊富で現在663haの水田に灌漑している。

 この山田井堰は、先人の偉大なる治水、水利技術を伝える貴重な存在で長い年月の内、幾多の大洪水で崩壊と復旧を繰り返した歴史的な遺産である。

近年では、昭和55年(西暦1980年)、昭和63年(西暦1988年)に集中豪雨により延8,199㎡が崩壊、流出したが、その都度、原型復旧で改修工事がなされた。水の最も取り入れやすい位置は、災害を最も受けやすい所で最近特に堰頭部の老朽化が目立ち、堰体崩壊のおそれがあるので国や県に要請協力を求め、農業用河川工作物応急対策事業により、県営で平成10年(西暦1998年)に空石積をすべて練石積に、現地石をすべて流用し、原型復旧により完成、往年の姿を保存する事が出来た。全国に類のない石堰で、改修になった堰より取水された水は末長く関係市町村の美田をうるおす事であろう。

  平成11年3月

 

出かけた頃はまだ用水路名がマップには表示されていなかったので、この説明板でわかりました。

   日本疏水百選 堀川用水

 山田堰は、大石堰、恵利堰と並ぶ筑後川三大堰のひとつで「傾斜堰床式石張石(けいしゃせきしょうしきいしばりぜき)」といい、寛政2年(1790年)に完成した日本では他にない石張り堰です。この堰の特徴は、取水量を増やし、激流と水圧に耐え得るための匠の技が随所に施されていることです。この地の庄屋、古賀百工(こがひゃっこう)が農民等とともに築造した山田堰は、朝倉地域の農業史を物語っており、この偉業と美しい田園を次世代に引き継ぎたいものです。

 水神社から山田堰を眺めると3つの水路があります。手前から砂利吐き口・中舟通し・南舟通しです。その昔、舟通しに帆掛け舟が往来し、いかだが下った情景を今に伝えます。

 この堰付近は、斉明・天智天皇にまつわる多くの伝承等も残っており、いつ訪れても彩られた四季を感じ、ゆっくり散策が楽しめます。

  平成19年5月31日  朝倉市観光協会

 

どちらも簡潔でいて、目の前の風景を理解する深い文章ですね。

 

*大きな石碑が3つ*

 

見上げるような石碑がありました。

一つは明治21年11月に建てられたもので、難しい漢文ですが、山田堰と堀川用水によって何百人もの農民が恩恵を受けていた歴史と、明治7年(1874)に起きた洪水によって堰が壊れその修復の経緯が書かれたものでしょうか。

 

真ん中の石碑は昭和25年(1950)建立の「古賀百工翁頌徳碑  建設大臣 一松定吉謹書」です。

下大庭庄屋古賀義重通称十作老後百工と称し徳次に住む 父は万右衛門重厚母は徳渕村空閑弥右衛門の女なり 翁常に灌漑治水の事に意を注ぎ新堀川の開鑿及び山田井堰改築の大業を完成し後世をして堀川の恩人と仰かしむ亦宜なる哉 惟ふに寛文三年堀川開通により廣漠たる原野に百五十町歩の美田生じ爾後十数回に亘る改修と共に漸次其の反別も増加したりとは云へ未だ全原野の一部を潤すに過ぎざりき 翁庄屋となるや一生を治水に捧げんと決意し宝暦九年藩許を得て水門の幅員を拡張し翌十年大川井手及び柴田橋より下流両側の笠上げ腹付けを断行し更に同年より明和元年に至る五ヶ年の日子を費やして突分より中村方面に通ずる用水路を増設し灌漑反別一躍三百七十余町歩となれり 当時測量術の幼稚にして翁此の業を督するや或は高張提灯を灯し或は盆に水を盛り高低を測れり 翁の苦心盍し言語に絶せしものなるべし次で寛政二年翁の熱意と才能を認められ山田井堰大改修の藩命を受く 翁乃ち粉骨砕心遂に此の雄大なる工事を達成せり 業成翁常に開拓の進むを見るを楽みとし寛政十年五月廿四日八十一才を以て永眠す○(読めず)して釈秀円となす今や山田井堰完成以来○○○○(読めず)後まで郷閭を潤すなり翁の功績眞に偉大なりと謂ふべし

○○○○(読めず)する郷民相回り翁の偉霊を水神社に合祀し且つ碑を建て以て永く後昆に傳へ併せて大福村字上楽の○域〇〇拡張子敬虔の誠を諭さんと云事

昭和二十五年三月五日  朝倉村三ヶ村堀川土木組合建之

 

残念ながら光に反射して読めない箇所がありました。

石碑を写真で記録に残すのは難しいですね。

この水神社は古賀百工翁を祀ったものだとわかりました。

 

そしてもう一つの石碑にも「水害復旧碑」とありました。

 

 

*「生涯をかんがい工事に尽くす」*

 

帰宅して検索すると、さすが農林水産省ですね、記録がありました。

 

福岡県 堀川の恩人 古賀百工

生涯をかんがい工事に尽くす

福岡県朝倉市 1718年(享保3年)〜1798年(寛政10年)

 

筑後川中流域に位置する朝倉

 

1662~3年(寛文2~3年)に大かんばつが起こり、これを契機として筑後川から水を引くための用水工事が行われ、翌年には150町歩余りの水田を潤す「堀川用水」が完成しました。それ以降も、改良改造がくわえられましたが、水田面積の増加に伴い、堀川用水のかんがい能力は限界に達して、堀川用水の恩恵をあずからないところでは、常に干ばつに悩まされることとなり、年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

下大庭村(現在の朝倉町)庄屋古賀百工は、解決策として、堀川用水の拡張を藩に願い出ます。事前に提灯やタライを使った高低差等の測量を行い、綿密に練った計画をもって願いでたことから、藩もこれを認め、5年後には「新堀川用水」は完成しました。

百工70才の時、根本的に水害、干害から住民・土地を守るためには、筑後川取入口の全面改修が必要であるとの思いから、筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てます。しかし、これにも難題がありました。湿害を被るとして、工事に反対の農民もいたのです。百工は、日夜全力を挙げて説得にあたりました。まさに命をかけてこの事業を実現しようとする百工の思いは藩に届き、ついに1790年(寛政2年)完全な山田堰は完成することとなりました。

百工は山田堰の完成後8年経った1798年(寛政10年)81才でなくなりますが、その生涯は、かんがい工事に全てを尽くしたものでした。

 

(「土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜」)

 

水不足のために用水を引けば解決するのではなく、排水もまた必要になる場所との調整でしょうか。

 

人を神として祀る

私の地図の中に、また一つそういう場所が増えました。

そして終戦直後の1950年(昭和25)に、あえて「人を神として祀る」場所を造ったのは、社会に生きる希望や夢が欠けた時代の葛藤の表現でもあるのだろうか。

そんなことを考えました。

 

 

 

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