水のあれこれ 432 世界かんがい施設遺産「山田堰・堀川用水・水車群」

山田堰を望む取水口の上に立つ水神社ですが、社殿の隣に作業小屋らしい場所があり、その壁に一面さまざまな説明がありました。

 

IDC  世界かんがい施設遺産登録 2014年9月

山田堰・堀川用水・水車群

 山田堰は1663年に造られ、1790年河道全体を覆う「傾斜堰床式石張堰(けいしゃせきとこしきいしばりぜき)」として大改修されました。灌漑面積は現在650ha、堀川用水と呼ばれる水路は総延長88.1kmにもなります。大改修の指揮を取ったのは古賀百工(こがひゃっこう)翁、述べ62万人の農民が出役しました。

 堀川用水に架かる水車群は1789年に設置され、5年毎の新調更新を経ながら7基が稼働、約35haの水田を潤しています。

 山田堰は、朝倉の地を潤すだけでなく、2010年PMS現地代表中村哲医師が遠くアフガニスタンの農村復興のモデルとして築造し、現在16,000haの農地をよみがえらせています。(数値は2019年時点)

 

地図で見ると、ここから取水された堀川用水が筑後川右岸の少し内陸を流れる支流桂川とにはさまれた長細い場所に、田園地帯が広がっています。

現地でぱっと見ただけの印象ではあるのですが、このあたりは対岸の方が傾斜の大きい土地で、右岸側はどちらかというと氾濫原のように見えます。

その桂川筑後川にはさまれた微高地に水車で水をのせた。そんな感じでしょうか。

 

1653年に多摩川の水を武蔵野台地の上へとのせ、そして1965年にはその玉川上水から分水し水を滞らせることなく武蔵野台地を横断させて荒川まで流した野火止用水のことが重なりました。

本当に江戸時代の土木技術はすごいものがありますね。

 

*そして現代のかんがいへ*

 

国営筑後川中流土地改良事業(総事業費:185億円)

 筑後川中流域は一級河川筑後川水系筑後川中流域に位置し、大石堰、山田堰、恵利堰によってかんがいする久留米市小郡市うきは市朝倉市及び三井郡大刀洗町にまたがる5,194haの農業地帯です。基幹的な農業水利施設は、国営筑後川中流土地改良事業(昭和56年度〜平成7年度)により造成および改築されましたが、経年的な施設の劣化により、頭首工や用水路の性能低下が進行し、農業用水の安定供給と維持管理に支障を来たすこととなります。農業水利施設の機能を保全するための整備を行い、施設の長寿命化により、農業生産性の維持及び農業経営の安定に寄与するものです。

 

山田堰

 山田堰は堰長320m、堰高3m、総面積25,370㎡の広さを持つ日本唯一の傾斜堰床式石張堰です。

 江戸時代に築造されてから何度か修繕はされたものの当時の原形は留めたまま、現在も農業用水を供給し続けています。山田堰には南舟し、中舟通し、土砂吐の3本の水路があり、流水は堰の下流で衝突、減勢するようにそれぞれの水路が配置されています。

 なお、舟通しは、舟運に利用されるだけではなく、魚道としての機能ももっており、生態系にも配慮したつくりになっています。

 洪水時には、水は堤体を越流して流れるため、利水、治水の機能を併せ持つ、技術的にも多様で高度な堰で、2014(平成26)年に世界かんがい施設遺産に登録されました。

 

1663年に造られた堰を改修しながら、現在もなお使われている。

圧倒されますね。

 

 

*圧巻の年表*

 

その説明の上に、もう一つ、手書きの表がありました。

江戸時代の堀川関係年表

1663(寛文3)年  堀川できる

1718(享保3)年  古賀百工生まれる

1722(享保7)年  水取入口切貫水門新設

1724(享保9)年  旱ばつ

1726(享保11)年  洪水

1728(享保13)年  大旱ばつ

1732(享保17)年  享保の大ききん・稲凶作

1736(元文1)年  筑後川大洪水

1754(宝暦4)年  大雨洪水・旱ばつ根付不能

1762(宝暦12)年  大風

1764(明和1)年  突分より堀川南線新設

1768(明和5)年  旱ばつ

1770(明和7)年  大旱ばつ

1776(安永5)年  大洪水

1780(安永9)年  旱ばつ

1782~1783(天明2~3)年  天明の大ききん

1785(天明5)年  旱ばつ

1786(天明6)年  田植頃 旱ばつ

1789(寛政1)年  水車一挺増設 三連水車誕生

1790(寛政2)年  古賀百工山田堰大改修

1798(寛政10)年  古賀百工没

1833(天保4)年  天保の大ききん

  以上、堀川三百年史より

 

2~3年に一度から数年に一度の大旱ばつや大洪水が、山田堰改修後には数十年に一度旱魃や飢饉になった感じでしょうか。

あの筑後川のすぐそばに広がる右岸地域で、水を十分に得られない時代がずっと続いていたのですね。

そして左岸もまた同じように水に苦しみ大石堰と大石水道を造った筑後川中流域の水の歴史の全体像が見えてきました。

 

それにしても「堀川三百年史」として災害や水利施設の歴史の記録があるとは。

だから後世に渡ってつじつまがあった歴史となっていくこと、そして整然とした美しい田園風景が健在な理由なのかもしれませんね。

 

1ヶ月ほど過ぎて、朝倉の三連水車を組み立てる風景がニュースで伝えられました。

毎年6月に組み立て、田んぼに水を入れ、そして田植えが始まるようです。

水車が元気に水を送り、周囲に稲が青々と広がる風景をぜひ一度見てみたいものです。

 

 

*おまけ*

「国営筑後川中流土地改良事業」に書かれている大石堰、山田堰ともう一つの恵利堰ですが、地図では見つかりません。

でもきっと西鉄甘木線のその名も大堰駅から東へ約数百メートルのところに、小石原川と用水路が複雑に交差する場所があり、そばに大堰神社があるので関係があるに違いないとピンときました。

計画の段階で見つけてぜひ歩いてみたいと思ったのですが、今回は時間が足りなさそうであきらめた場所でした。

 

通称床島堰だが、所在地は恵利だから恵利堰とすべきという箇所からもう一度地図を見ると、筑後川左岸に田主丸(たぬしまる)町恵利がありたしかに堰が描かれていました。そしてそこから大堰神社のあたりまで右岸に水路が通っています。

筑後川中流域のかんがい、壮大ですね。

 

 

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