大昔からの干拓に思いをはせる石丸公園のベンチで休憩したあと再び西鉄大牟田線に乗り、いよいよ柳川へむかいました。途中、八丁牟田あたりの風景で鳥肌が立ちました。たしか2022年に車窓から圧倒された記憶がある場所です。
水路があちこちにあり、田おこしした場所もあれば麦が青々と育っているところもあります。道路沿いの植栽も、何もかも整然とした美しさです。
車窓から見えるのは「美しい農村地帯」あるいは「干拓地」ではあるのですが、地図を拡大していくと幾何学模様のように水路がはりめぐらされているクリークです。
16時30分、柳川駅に到着しました。
駅前に「海抜3m」と「佐賀まで16キロ」の表示がありました。
ホテルの窓から佐賀の山並みまで見えます。このほとんどの陸地がクリークだと思うと、感慨もひとしおですね。
野焼きのためだけでなく、なんとなくどんよりしているのでやはり明日は雨でしょうか。祈りながら天気予報を何度も確認したのですが、東シナ海からの大きな雨雲が少しずつ近づいています。
あとは午前中と午後いつ頃から本降りになるかです。
いつ雨が降り出してもいいように、まさかの佐賀へいこうという欲張りな計画を実行することにしました。
これならバスの車窓の散歩にできますからね。
*筑後川河口付近の入り組んだ県境*
2021年に初めて佐賀のクリークを訪ねた時にはあまりの暑さで、「クリークを歩き尽くす」のは断念してバスの散歩に切り替えました。
出発直前に偶然見つけた「デ・レイケ導流堤」を訪ねた時に、佐賀駅から筑後川を渡って柳川へ行く路線があることを知りました。
佐賀県と福岡県は、筑後川の河口付近でこんな交通網があるのだと印象に残りました。
干拓地を突っ切るような路線は、いつ頃からどのような人や物の流れがあったのでしょう。
地図を眺めていると、筑後川に沿って複雑な県境が描かれています。
左岸側に佐賀県が食い込んでいたり、右岸側に福岡県が食い込んでいたり。そして河口近くの大野島は真ん中で佐賀県と福岡県に分かれています。
おそらく、蛇行したかつての筑後川をまっすぐな近代的な放水路にしたための痕跡だろうとは推測がつくのですが、県が違うとクリークの風景も違うのでしょうか。
そんなことが気になっていました。
この蛇行した県境については、国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所のサイトに「下流域エリア」に書かれていました。
捷水路群(しょうすいろぐん)
各所で蛇行していた筑後川は、洪水の度に湾曲部から氾濫。そのため、水がスムーズに流れるようにできるだけ直線的にする捷水路工事が藩政時代から行われていた。昭和に入って完成した坂口、天建寺、小森野、金島を筑後川の4大捷水路と呼んでいる。
(強調は引用者による)
放水路というのは近代に入ってからだと以前は思っていたのですが、「川の付け替え」という江戸時代の土木事業の発想や技術にまた驚きますね。
そして「承水路」はここ数年で知りましたが、捷水路は初めて知る用語です。
その専門用語の背後には膨大な歴史や専門知識があるのに、こうした簡潔で誰にも伝わるわかりやすい説明なのが国土交通省の資料ですね。
ほんと、勉強になります。
今度はいつか、この捷水路から県境のクリークを眺めてみたい。困りましたね。
*筑後川河口の県境を行ったり来たりしてみよう*
さて、柳川と佐賀県方面への路線バスはもう一本あります。
柳川駅から柳川城址の南側を通り、途中から北西へと向きを変えてまっすぐ干拓地を突っ切り、筑後川にかかる新田大橋を渡り大野島の北側の福岡県側の地域を抜け、早津江(はやつえ)川にかかる橋の真ん中で佐賀県に入り、終点の早津江バス停を結ぶ路線です。
これなら河口付近の両岸の広大な干拓地を見ることができそうです。
早津江は、2021年にデ・レイケ導流堤を訪ねた時にその名前を覚えました。ちょうど導流堤の辺りから大野島を挟んで筑後川が分かれた流れです。
ここも見てみたい。
そして早津江には佐野常民記念館があります。
社会のためにと自分の人生を投げ打った人々の話にますます惹きつけられる、昨今の世の中の雰囲気を乗り越える何かを学ぶことができるかもしれません。
1本の路線バスで、4年前のやり残した宿題を見て回ることができそうです。
多少の雨にも負けず、明日も散歩をすることにしましょう。
*おまけ*
筑後川にかかる「新田大橋」は「しんでん」かそれとも「にった」か、検索したらまたすごい先人の記録に出会いました。
サイト名はよくわからないのですが、「大川市②「新田大橋」」にこんな説明がありました。
新田大橋(しんでんおおはし)【福岡県・大川市】
2008年8月27日散歩
有明海に注ぐ筑後川の下流、大川市大字新田と同市大野島にかかる橋。
ローゼ鋼アーチで1973年12月完成。
完成するまでは県営渡船(新田渡)で行き来していた。
大野島は、筑後川河口にできた大三角州にある大川市内の地名で、大三角州は、佐賀県川副町大詫間と大野島で南北を2分している。
約400年前の天文年間までは有明海であったが、筑後川からの大量の土砂により次第に三角州を形成した。
1587年に立花宗茂が柳川城主として筑後四部を領したときは潟地だったが、1601年には庄屋津村三郎左衛門により開墾が始められ、1616年に初めて人が入島し生活を始めた。
当時は、その形が釜の蓋に似ていたので窯蓋島と呼んだそうだ。
今では、筑後川河川敷を利用した大規模な総合運動施設などがある。
この橋の上流の次の橋が「筑後川昇開橋」である。
一本の橋の名前の読み方を調べただけなのに、その地域の歴史がこんなに手に取るようにそれでいて簡潔にまとめられている文章に出会うとは。
この国は、こうした世の中の正確な記録を残そうとする人たちによって本当の強さを保ってきたのだと思うこの頃です。
自分がわからないことに謙虚だからこそ、歩き、探し求めそしてより正確な知識にしていく、そんな感じでしょうか。すごい国ですね。
私も10代の頃にそのような方々の存在を知っていたら、理想や思想に右往左往しなくて済んだのかもしれない。頭がごちゃごちゃしていた生き方とは別世界の境界線を感じるのです。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。
渡船のまとめはこちら。