天気が崩れる予報の中、3日目の計画ができたのですが、テレビから翌日にはやまじ風のために予讃線が運休になることが伝えられていました。
翌朝6時にはまだ時々パラパラと雨が落ちているくらいでしたが、福岡には暴風警報が出ていました。
四国の「やまじ風」、今年1月に伊予西条の干拓地と湧水を訪ねた時に、春と秋に強い風が吹くことを知ったのですが、5月でも列車を止めるほどなのですね。九州北部と瀬戸内海の天候はどう繋がっているのでしょう。
低気圧の中心が日本海を通過する際に、四国山地に南から吹きつけた強風が石鎚山系と剣山系の間の鞍部になっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に吹き降りることにより発生する。やまじは年間を通じてみられるが、春に最も多く発生する。
(Wikipedia「やまじ風」「原理」)
もしかしたらこの日は「低気圧の中心が日本海を通過」していたのでしょうか。
ふだんはさらっとしか天気予報の風に気を留めていなかったのですが、この半世紀ほどでさらに正確になった天気予報のおかげで、さまざまな産業の安全が守られていますね。
*クリークと筑後川の県境をバスで越える*
8時10分発のバスが4人程乗せて出発しました。
車窓からは柳川の市街地の建物の間に、ところどころに水路が見えます。変哲のない水路のようですが、頭に入れていた柳川の地図でクリークの一端だと知っているので全ての水路が輝いて見えます。
これを見たくて訪ねたのですからね。
何世紀ごろに、どれだけの時間をかけて干潟から陸地にしたのでしょう。
当日のメモはこんな感じ
市街地でも水路と古い家が結構残る。
市役所前の水路いい。御花前あたりから風情あり。沖端川の上で停車。佐賀の山が見える。麦、クリーク、浜武、広大。
久々原、集落の細い道、青鷺。田脇、焼き板に白壁の家。細川道、農業倉庫前。バス行き違い待ち。田植え後の田んぼ!金仙寺。舟造る。中間、落ち着く。
複雑な交差点から県道18号線。あちこちに水門、石像、水路に青鷺。
やっぱり倉敷も干拓地の風景だったのだ。どこか似ている。
途中まで数人の乗客だったのが、筑後川を越える直前で私ともう1人になりました。
他の方がいらっしゃったので写真を撮るのを控えていたのですが、新田(しんでん)大橋の上から悠々と流れる筑後川を見たら写真を撮りたくなりました。
河口に向けて川幅いっぱいに水が流れています。どこかで見たようなと思ったのは、規模は違うけれどメコン川とメコンデルタの風景と重なりました。実際には見たことはないのですが。
さていよいよ大野島へ入り、巨大な中洲の島を走りますが、やはりそれまでのクリークと変わらない風景です。ただ、こちら側では麦秋でした。
「外開バス停」は干拓由来の地名だろうと思いましたが、なんと読むのだろうと思ったら「ほかびらき」でした。どんな歴史がある場所でしょう。
「早津江橋バス停」を過ぎると、いよいよ早津江橋を渡りました。
先ほどの筑後川本流よりは川幅が狭いのですが、やはり悠々と水が流れ、そして右岸には舟が何艘も停泊していました。
高さのある堤防はなく、河岸が少し高い場所に住宅地が見え、そのさきの低地にまた広大な水田地帯が見えました。
同じ筑後川周辺のクリークのある田園地帯ですが、この季節の柳川はまだ緑色の麦と田植え直後の田んぼで、筑後川を越える鮮やかな黄色の麦秋の風景でした。
*干拓地の集落はどうやって造られたのだろう*
有明海の干潟を沖へ沖へと少しずつ広げた干拓地の真ん中をバスが走り、筑後川河口両岸の風景を見ることができました。
道に沿って集落が点在しているのですが、微高地なのでしょうか。
そして木曽三川や関東の大きな川にあるような周辺地域より高い堤防は、車窓からは見かけませんでした。
となると、「備前佐賀の水土の知」に書かれていた有明海の「干満の差は最大6m」の意味がいまだに理解できないままです。
大雨などの洪水だけでなく、毎日の干満差の大きい干潟の上に千数百年前から水田と集落をどうやって造ってきたのだろう。
またわからないことが増えました。
*おまけ*
早津江橋で検索したら、「さがの歴史・文化お宝帳」にこんな説明がありました。
早津江橋
昭和26年に完成した早津江橋は昭和28年の水害により流失した。この水害は6月の梅雨時、佐賀平野は水浸しになった、2年前に完成したばかりの早津江橋も被害にあった。上流から流れてきた廃材など水害の残骸を橋脚に絡み付けて大きな島を作ったが、まもなく橋は押し流されてしまった。現在の早津江橋は主要県道大牟田・川副線の終点部に位置し一級河川早津江川を挟んで、福岡県大川市大野島と佐賀県佐賀市川副町早津江を結ぶ長大橋である。(以下略)
昭和28年6月ですから、あの「古今未曾有と称される豪雨」のようです。
「米のあれこれ」まとめはこちら。