柳川からのバスの終点、早津江で下車しました。目の前は真っ黄色の麦秋です。
この川副町早津江のあたりは一部にクリークが残っているようですが、地図で見ると「幹線水路徳永線」が佐賀江川から時々直角に曲がりながらまっすぐ太い水路として描かれています。
いつ頃、クリークからの圃場整備が行われ、その過程ではどのような歴史や葛藤があったのでしょう。
バスから降りると足元の砂は白っぽく、そしてふわりとどこからか木の家の良い香りが漂い、祖父母の家の近くに来たような錯覚になりましたが、目の前の「佐野常民生誕地」の案内に我に帰りました。
雨はまだ大丈夫のようです。
記念館に向かって歩くと、地図にはない鎮守の森のような場所があります。「佐野常民生誕地」と書かれ、中に大きな石碑がありました。
1968(昭和43)年に日本赤十字社佐賀支部によって書かれた案内に、「日本赤十字社は大正十五年(1926)11月創立50周年を記念して生誕のこの地に記念碑を建てた」とありました。ちょうど父が生まれた年です。当時、赤十字社は社会にどのように広がっていったのでしょう。父や祖父母に聞いておけばよかった。
もう一つ新しい案内の石碑があり、それは2022(令和4)年に「生誕200年を記念」した碑でした。
静かな住宅地の片隅に、静かに生誕地がありました。
美しい灰色の瓦屋根と白壁の住宅という、半世紀いえ1世紀ぐらい前に戻ったような家並みと、それぞれの家が花を手入れされている美しい道を歩くと大きな記念館が見えてきました。
*佐野常民歴史館へ*
館内は写真撮影が許可された展示と禁止されているものとがありましたので、撮影が禁止されていた年表でこんなメモを残していました。
文政11年台風来襲 子年の大風
水田一万ヘクタール、死者8200人、有田では大火、窯業大打撃
1828(文政11)年、佐野常民氏が5歳の時にシーボルト台風と呼ばれる「過去300年に日本を襲った台風では最大級」のものだったようです。「死者8200人」はそのWikipediaによると「佐賀藩だけで死者約1万人、九州北部全体で死者約1万9000人」とありました。
幼子にはどんな風景に見えたのでしょうか。
Wikipediaの説明では医学とのつながりについては「佐賀藩医佐野常徴の養子となった」しかわからなかったのですが、記念館でいただいた資料では「幼〜青年期・外科医を目指す」とあり、「17歳の頃、斉直の死去に伴い、佐賀へ帰る事となった栄寿(*常民)は再び弘道館で一般の医学を学ぶほか、親戚の松尾家の塾で外科学を修行しました」と書かれていました。
医学だけでなく物理、科学、砲術、兵学などの「最新の蘭学」を学び、1853(嘉永6)年32歳の頃から佐賀藩精錬方、佐賀藩海軍の中で働くようになったことが書かれています。
この記念館がなぜ「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」なのか、意味がつながりました。
そして、記念館の前に立ち寄った志賀神社の御由緒ともつながりました。
清和天皇の御世、貞観元年(八五九)、有明地方の総守護神として、金印が出土した事で有名な筑前志賀島の志賀海神社より分霊され、当時は無人の洲のこの地に石の祠が建立されたと伝えられて居ます。祠は汐の満に海中に没し、干に現れたりと、志賀社旧記に誌されています。その後次第に陸地化が進み人家集落ができて海と陸の交通交易の拠点となり、神社も荘厳を極め崇敬を集めました。竜造寺隆信以来歴代藩主が尊崇し、明暦四年(一六五八)には鍋島光茂が本殿を寄進しました。また鍋島直正は、大願成就を志賀神社に祈願して我が國初の産業蒸気船建造に取り掛かりました。その結果慶応元年(一八六五)凌風丸が三重津海軍所で進水しました。
昭和十五年日本海軍発祥の地の当社は皇紀二千六百年を記念して帝國海軍の祈誓神社となり大規模な改修事業が始まり昭和十九年県社に昇格しました。終戦後昭和二十一年宗教法人志賀神社として発足しました。
(強調は引用者による)
この辺りがまた干潟だった頃から干拓によって集落ができた時代の記録ですね。
来る途中、バスの車窓から見えた早津江川に船が多く停泊していた理由でもあるのでしょうか。
記念館の資料では「安政2年(1855)三十四歳 蒸気車・蒸気船の雛形(模型)を製作」「安政5年(1858)三十七歳 三重津海軍所(御船手稽古所)の設置に携わる」とあり、記念館から100mほど西にある志賀神社の御由緒とつながりました。
*「佐野常民講演のことば」と「博愛社設立請願書」*
展示の中でも印象に残ったものがありました。
「佐野常民講演のことば」
(世間の人々は)文明といい、進歩といえば、すぐに法律や制度が完備されていること、最新の器械技術があることこそがその証拠であると考えますが、私は、ただひとり(赤十字のような)組織がたちまちのうちに、国内に根付き、発展していることこそが、その証拠であると考えるものであります。
(強調は引用者による)
まさに。
「博愛社設立請願書」
天皇陛下に対して敵対したといっても、(天皇陛下が治められている)日本の国民である。その彼らが負傷して、(手当もうけられず)ただ死ぬのを待っている状態であるのに対し、彼らを見捨ててしまうのは、人の情けとして見過ごすには耐えられず、収容して、手当てをしてあげたいと考えます。
「戦死者を並べてとりでにするような戦い」に反対することと、海軍の施設を造ることは矛盾しないのだろうか思ったのですが、この二つの「ことば」で漠然とですが見えてきました。
家や村から藩へ、そして国家からさらに人類へと、今では当たり前のように享受している普遍性を獲得するための闘いと葛藤が江戸末期から明治維新だったのだろうと。
緒方洪庵の人命尊重の精神「不治の病者(治る見込みのない病人)も棄てかえりみざるは人道に反す」から、人の命を尊重し、苦しみの中にいる者は、敵味方の区別なく救うへ。
私が看護学生になった1970年代終わり頃は、それは「当たり前」と感じる時代になっていたとつくづく思い返しました。
昔の方々の大きな犠牲と葛藤があったからこそ、ですね。
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