記録のあれこれ 227 佐野常民、「伊能忠敬を顕彰する」

佐野常民氏の生きた時代とその「ことば」に、後の世に続く普遍的なものを見出す人とそうでない人の違いはなんだろうと考えながら展示を見ていると、期せずして伊能忠敬という文字が目に入りました。

 

「時空年表外伝」という展示に「伊能忠敬を顕彰する」とあります。

伊能忠敬を顕彰する

佐野常民の功績のひとつに過去の偉人の業績を発掘したことがあげられます。そのひとりが伊能忠敬です。伊能は「大日本沿海世地図」を作成、その精度は現代のような高度な測量技術が発達していない時代に制作されたにもかかわらず、正確さ、精密さの点で、現代の地図と見劣りすることがなく、これまでの日本で制作されてきた地図の中でも最高傑作と称されています。

伊能が、沿海輿地図の測量を開始したのが、寛政12年(1800)伊能56歳の時、当時としては老齢といっていい年でした。さらに文化13年まで、5回にも及ぶ大規模調査をおこない、北から南まで全国を隈なく調査、最終的に文政4年(1821)完成させています(伊能自身は1815年没)。これは佐野が生まれる前年にあたります。

この伊能圖は完成後、幕府に献呈されましたが、余りに精度が高い図面故に、幕府からすれば自然機密資料扱いとなり、秘匿され、維新まで外部に出されたことはありませんでした。江戸時代後期に来日、鳴滝塾蘭学を指導したフランツ・フォン・シーボルトが帰国の際、この地図を持ち出そうとして発覚、関係者が厳罰に処された事件はよく知られているところです。

佐野は東京地学会でおこなった講演のなかで、伊能忠敬の業績を撮影した講演をおこなった際、沿岸輿地図制作にまつわる伊能の苦労をたたえ、さらに伊能の功績を評価して「伊能の沿岸輿地圖の価値は、図面の素晴らしさにとどまらず、英国との戦争を止めさせた点である」と述べています。

日本では、特に幕末に開国し、外国船が来航するようになります。しかし、日本は岩礁地帯を中心に、船の接岸に危険な箇所も多く、地形を正確に表した地図が必要になります。そのため、日本の沿岸付近に姿を現した外国船がおこなうことは、まず、地形の測量です。さらに、交易を仮定するならば、長く碇泊を可能とする湾内、港付近の地形もより重要になってきます。

よって外国船はある程度碇泊し、時には短艇を出して測量を行いますが、これが時に開国以前からの日本側の悩みの種となりました。明治政府成立直後の慶応4年に起きた「堺事件」もその発端は、堺港にてフランス蒸気船が短艇を出して行なっていた測量中に起きた事件でした。

佐野が従属した佐野藩では、長崎警備を担当していることもあって、特に測量のため島の付近や、時には湾内に侵入してくる外国船の動きに神経をとがらせ、外国船の行動を制止しようとして緊迫した状態になることもしばしばでした。また、佐野自身、幕末の長崎での海軍伝習をはじめ、海軍関係の業務の上で、海図と測量術の重要さを肌身で知悉していました。よって「伊能が作成した沿岸輿地図のおかげで英国と戦争にならずに済んだ」という佐野のことばは、決しておおげさではなく、伊能図がもつ重要性と幕末当時の測量をめぐる外国と日本の危機的状況の本質を見抜いていたことを意味しています。

 

この伊能が作成した「大日本沿海輿地図」は明治6年のウィーン万国博で日本の出展品のひとつとして、現地で紹介されました。その正確さに人々は驚嘆し、同時に世界へ当時の日本の測量技術の正確さ、優秀性を示すことになったのです。

ちなみに佐野が講演した場である、東京地学協会は、ウィーン、ロンドン、サンクトペテルスブルグの王立地学会に、渡邊洪基、鍋島直大榎本武揚が所属したことを契機に、国内でも海外にならい、地学、測量学の重要性を普及啓蒙することを目的として明治12年(1879)設立、会長に北白川能久親王、会員には前述の渡邊、榎本をはじめ、伊藤博文、赤松則良等政界、華族、軍関係、知識人など錚々たるメンバーが集まる中、福沢諭吉とともに佐野も理事に名を連ねています。この点からも、改めて佐野の人脈の広さと、いわゆる「理系面」の経験と深い造詣をあらわすものといえるのではないでしょうか。

 

 

伊能忠敬の地図はこんな歴史につながるのかと思いながら、まさか佐野常民記念館でその名を見るとは思ってもいませんでした。

 

 

佐野常民が5歳の時の出来事*

 

記念館の展示にあった、佐賀や九州北部に甚大な被害を及ぼした文政11年の台風を検索すると「シーボルト台風」と呼ばれていることがわかりました。

Wikipediaの「文政年間の出来事」を見て、伊能忠敬の地図を完成させた高橋景保のことを思い出しました。

 

・文政11年(1828年):シーボルトが天文方高橋景保から贈られた伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図を国外に持ち出そうとしていたことが発覚。江戸幕府シーボルトにスパイ容疑をかけ、また、シーボルトの情報収集に協力した疑いで高橋景保ら多くの日本人有識者を投獄(シーボルト事件)。

・文政11年(1828年)8月:シーボルト台風来襲。九州地方北部を中心に死者1万九千人以上。

 

「シーボルト台風」と呼ばれるようになったのは1961年(昭和36)であり、その経緯がWikipediaにありました。

この台風は襲来年の干支にちなんだ「子年の大風」、あるいは元号にちなんだ「文政の大風」の名で長年呼び習わされていた。後に気象学者の根本順吉は、この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に至った事実に着目。そこから1961年、この台風に「シーボルト台風」の名を与えた。

 

当時、佐野常民自身が被災者として幼児だった年に、シーボルト事件が起きていたのだとまた私の年表が正確になりました。

 

 

 

*「顕彰」には名誉復活という意味があったのかもしれない*

 

佐野常民が5歳の頃に起こったシーボルト事件ですが、その内容を常民自身が知ったのはいつ頃でどのように受け止めたのだろう、そんなことが気になりました。

 

地図は好きですが、その歴史には疎い私でも「日本沿海輿地図」というと伊能忠敬とすぐに出てきます。ところが完成したのは伊能忠敬の没後であり、完成させたその人の名を知らないどころか、壮絶な最期であったことを知らないままで来てしまいました。

高橋景保シーボルト事件に関与したとして1828(文政11)年10月10日に投獄され翌年2月16日に45歳で獄死し、さらにその遺体は塩漬けにされたまま1年後に「改めて罪状申し渡しの上斬首刑に処した」とあります。

ご遺体をさらに傷つける方法で形式的な処刑を見せしめのために行なった。

わずか200年ほど前のこの国の、残虐な歴史です。

 

幼児から青年期に入るどこかの時点で、佐野常民はこの事実を知り、その正確な地図を海軍時代にも目にしたのかもしれません。

あるいは国防上の理由で始まった全国の測量でしたが、洪水のたびに田畑の測量が必要になることから正確な測量をしたことが原点であり「政治的や歴史の事情よりも数学や地理的な正確さを優先させた」、その意図と文政の大風の被害と重ね合わせて、何か強い思いを秘めていたのではないかと思えてきました。

 

表面上は「伊能忠敬を顕彰する」でも、そこには完成まで手伝った天文方高橋景保等の最期の名誉回復の思いがあったのではないかと勝手に想像しました。

 

いずれにしても佐野常民の人生は、正確な地図もまた大きな影響を与えたようです。

 

 

 

*おまけ*

散歩して見つけた江戸で種痘法を開始した伊東玄朴もまた、佐賀藩医の養子となりシーボルトらに蘭学を学んでいたこととつながりました。

佐野常民は伊東玄朴ともどこかで出会っていたのでしょうか。

 

 

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