落ち着いた街 88 早津江から沖端へ、クリークの街

佐野常民記念館の展示を見終わり、訪ねて本当によかったと出口へ向かおうとしたら大きなパネルがありました。

川副町空中写真集成図 昭和五十六年(1981年)」で、早津江川と八田江川に囲まれた地域に、海岸まで水田と複雑に入り組んだクリークに囲まれた集落が映っています。

現在の佐賀江川からのまっすぐな幹線水路はなさそうで、クリーク離れが起こる前でしょうか。

1981年、すっかりセピア色の写真でしたが、ちょうど私が友人に誘われてこの水路が張り巡らされた佐賀の水田地帯に泊まった頃のものです。

あの頃は「ただの水田地帯」と思っていたのに、その40年後には郷愁を感じてクリーク巡りをするのですから、人生、本当にわからないものですね。

ああ、まだまだ佐賀のクリークを歩き尽くしていない、やり残した宿題に心が弾んできました。困りましたね。

 

早津江から柳川に戻るバス停へは、早津江川の堤防沿いに歩きました。

上流まで右岸側には漁船が停泊しているのが見えます。

明治時代が始まる頃の「戦死者を並べてとりでにするような戦い」から昭和の戦争の時代を経て今に至るまで、どんな街や生活の変化があったのでしょう。

 

バス停に着いた時には雨が降り始めてきました。

早津江川を渡り、筑後川にかかる新田大橋を渡るときに「ケレップ水制」とメモをしていました。

2021年に見にいった約6.5kmに及ぶデ・レーケ導流堤の下流部分です。川の真ん中に、導流堤の上の部分が続いているのが見えました。

行きのバスの車窓からは気づかなかったのは、「干潮の時だけ見られます」(佐賀市観光協会)ということかもしれませんね。

行き当たりばったりの散歩だったのに、ケレップ水制を見ることができたのでした。

一世紀後にも通用している科学的な技術ですね。

 

バスは柳川に入り、クリークの水路網があちこちに見られます。小さな祠や神社があり、水路には雨の中青鷺が佇んでいました。

車窓の風景を眺めていたら、せっかく訪ねたのだからとエイっと筑紫町バス停で下車し、雨の中計画通りの場所を歩くことにしました。

 

 

二宮神社へ*

 

柳川のクリークも広大ですから、どこを歩くか何日間も悩みました。地図を拡大したり縮小して干拓地らしい地名一世代に一干拓で沖へ沖へと陸地を広げた痕跡がわかるような場所、そしておそらく水を治めるのに大事な場所だったのだろうと思われる場所がしだいに頭に入ってきました。

 

「古賀」の地名の近くに、「水産橋」と「龍神社」を見つけました。

どんな歴史がある、どんな街でしょう。近くの水路は柳川城址の外堀でしょうか、そこに水天宮を見つけました。ここを歩いてみようという計画がありました。

 

バスを降りたら一旦、雨が上がっていました。どこまでお天気がもつでしょうか。

 

県道767号線を渡って南側へ歩き始めると、「ため池」がありました。これもまた複雑に入り組んだクリークの一部でしょうか。

この辺りの住宅は灰色の屋根瓦が多いようです。その先に、やはり灰色の瓦の古い木造の二宮神社がありました。

 天正九年(一五八一)五月二十七日柳川城主蒲池鎮漣(*)は竜造寺隆信に殺され柳川城を守った弟統安も戦死し一子蒲池宗虎丸は沖端の漁師の家で殺され一家全滅となった。

 戦後この地を治めた竜造寺一門に度々不吉の兆候が起こったので肥前方は、鎮漣・統安の霊を慰めるためこの地に社を建て、その冥福を祈ることとなった。

 その社が二宮神社である。

(*文中ではこざとへんに「連」) 

静かな静かな住宅地の真ん中にあるのですが、なんとも深い歴史がありました。

16世紀にはすでにあった集落のようですが、現在の河口からは3~4kmほど内陸に漁師が住んでいたようです。

 

 

*水産橋と冲端漁港*

 

 

ゆるやかに蛇行した道を抜けると、川に出ました。水は真ん中に少しあるだけで、河底の砂が見えています。やはり干潮の時間帯だったのかもしれません。

 

地図に「水産橋」とあった橋のたもとに、両岸にぎっしりと舟が停泊しているセピア色々の写真がある案内板がありました。

沖端漁港(Okinohata Fishing Port)

 沖端漁港は、有明海に注ぐ沖端川に位置する河川内の漁港です。豊穣な生物が棲む潟の川、沖端川は潮の満ち引きによって水面へと潟へとその姿を変え続けています。昭和の初めまで、沖端川は人や物が行き交う路であり、有明海を通じて外の世界へと通じていました。当時、沖端は柳河藩の重要な港の一つであり、領外との取引地である、長崎や鹿児島、天草などからの船で賑わっていました。

 

「潮の満ち引きによって水面へと潟へとその姿を変え続けています」

思い返せば、干拓への関心から潟とは何かそして潟の生活とはどんな感じかと知らない世界が広がり、潟を訪ね歩くようになりました。

 

そういえば、いまだに同じ潟の1日の変化を眺めるということをしたことがなかった。

いつもなんだか駆け足で見て回っていますからね。

今度は一日中潟のそばに座って、ぼーっとその変化を眺めてみたい。やり残した宿題ができました。

 

欄干には真新しい緑の魚網がかかっていました。

現役の漁港でもあるようです。

 

水産橋から東側の外堀につながる水路へと歩くとまた案内板がありました。

水産橋橋詰広場 旧水産橋跡

 「水産橋」の橋名は、福岡県水産試験場明治43年に同地にあげまき実験場を設置したことから名付けられ、沖端の漁業と深い関わりを持つ橋でした。また、船溜を挟み「沖端両町」と称された北町と南町に分かれた町を繋ぐ、住民の生活軸としても重要な役割を果たしました。

 数次の架け替えを経て昭和28年に架設された木橋は、塩害により木製の柱が朽ちる等の老朽化が進み、平成24年に架け替えのため解体されました。旧水産橋南側の橋脚は、当広場内の木製デッキの位置にあたります。また、デッキ横に位置する樹木のエノキは、旧水産橋南端にあった樹木を再現したものです。

 

写真には、木橋の上を荷台を押して通行する人が写っています。

その案内板の向こうに木のデッキがあり、大きなエノキがありました。

こうした何気ない一本の木や木のデッキが、ここに住む方達の記憶を呼び起こすものなのでしょう。

 

クリークというと水田地帯を思い起こしていましたが、クリークは大事な交通や漁港としての役割もあったのでした。

バス停からわずか300mほど歩いただけでしたが、見ている風景の歴史が浮かび上がってくるような案内板に導かれました。

 

 

 

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