柳川のクリークの中にある水産橋の近くで読んだ沖端漁港と旧水産橋の説明で、「福岡県水産試験場が、明治43年に同地にあげまき実験場を設置」の一文に、またやり残した宿題を思い出しました。
水産試験場の歴史についてほとんど何も知らなかった、と。
検索したら2022年12月に出された「水産研究125年の歴史」(水産振興ONLINE)がありました。
第2章 水産資源研究の125年
水産資源研究所 企画調整部門長 上原伸二
明治期から太平洋戦争開戦まで
水産講習所試験部が設置された明治30年(1897年)が水産研究元年とされているが、試験研究自体はそれ以前にも行われていました。明治19年(1886年)に農商務省水産局に試験課が設置されました。明治20年(1887年)に同課により伊豆七島近海漁業調査が行われ、翌年の明治21年(1888年)には水産予察調査が行われました。この予察調査は全国を5海区に分けて実施され、調査の大正は日本各地の海底地形、潮流、漁獲される魚の種類、生態、漁場など多岐にわたるものでした。我が国初の地方水産試験場である愛知県水産試験場は明治27年(1894年)に設立しています。
明治30年(1897年)の水産講習所試験部設置後、太平洋戦争が開戦する昭和16年(1941年)までの間は、我が国の水産業が発展し、それとともに試験研究体制の強化が行われた時代でした。明治43年(1910年)に漁業基本調査が開始され、全国規模で海洋資源、生物の調査が行われました。同年に、明治漁業法が制定されています。大正7年(1918年)には、第1回海洋調査主任事務打ち合せ会が開催され、海洋観測60定線が設置されました。昭和4年(1929年)に農林省の水産試験場が発足し、水産講習所の試験部と海洋調査部が水産試験場に改組されました。この間、明治42年(1909年)に雲鷹丸、大正8年(1919年)に天鴎丸、大正14年(1925年)に蒼鷹丸などの調査船も建造され、試験調査業務の充実が図られました。
広義の水産資源研究は、大きく分ければ、漁獲対象水産生物の生物特性値の把握、資源評価、漁況予報などを行う部分(狭義の水産資源研究)と、海洋の物理化学特性の把握、海洋生産力の把握、海況予報などを行う部分(水産海洋研究)から成り立っています。
次節からは、"狭義の”水産資源研究と水産海洋研究の歴史を振り返ります。
水産資源研究
大正から昭和期にかけて、マイワシを主体とした、いわし類の水揚げが増加し、漁獲量は100万トンを超えました。いわし類漁獲増加の社会に与える効果は大きく、全国各地の漁村のみならず国の経済にも重要な地位を占めていました。しかし、昭和17年(1942年)以降マイワシの漁獲が激減し、太平洋戦争終戦を迎えた昭和20年(1945年)のマイワシの漁獲はわずか26万トンでした。戦後における経済復興と食糧供給の面から、このマイワシの不漁問題への対応が非常に大きな課題となり、調査研究の充実と徹底化が必要となりました。これを受け、昭和22年(1947年)、マイワシ等大規模産卵場調査が行われ、マイワシ卵判定方法などの研究が行われました。昭和24年(1949年)にはいわし類資源共同調査として、同年に農林水産試験場を改組して設立された6つの海区水産研究所と29の道府県の水産試験場が連携して調査研究にあたりました。昭和30年(1955年)、イワシ調査担当者会議が開催され、年齢査定法などの研究が行われました。これらの研究の知見は昭和30年代中頃に揃いはじめ、毎年の資源構造や産卵、成長、成熟などの知見が集積されました。
前述したように、昭和24年(1949年)に農林水産試験場を改組し、東北区、東海区、日本海区、内海区、南海く、西海区、淡水区の7つの海区水産研究所が発足、翌年には北海道区水産研究所が設立され、資源研究の体系の基礎がつくられるとともに花開く時代となりました。
マイワシ研究の他にも、各水産研究所ではそれぞれの研究対象魚類について年齢、成長、移動回遊、加入機構、系群構造、卵稚仔分布、数理統計解析等の研究が行われました。北海道区水産研究所ではスケトウダラ、ニシン等、東北区水産研究所ではカツオ、サンマ、底魚類等、東海区水産研究所ではマイワシ、さば類等、日本海区水産研究所ではカツオ、サンマ、底魚類等、西海区水産研究所では以西底びき、さば類等を研究対象として、海区特性に応じた取組が始まりました。
また、昭和40年代には我が国の漁場が遠洋に拡大し、遠洋漁業の進展を図るため、昭和42年(1967年)に遠洋水産研究所が設置されました。昭和52年(1977年)、米国、ソ連が漁業専管水域200海里を宣言、我が国も漁業水域に関する暫定措置法により、200海里時代に突入しました。これに伴い、遠洋漁業からの撤退が相次ぎ、遠洋漁業の漁獲量が減少する一方で、昭和63年(1988年)にマイワシの漁獲がピークを迎えました。その後、平成4年(1992年)ごろからマイワシの漁獲が激減し、日本全体の漁業生産量も減少しました。こうした状況の中で、沿岸・沖合資源の重要性が再認識され、水産資源研究として、資源生態の解明、資源量の評価、許容漁獲量の把握が重要な課題となりました。
また、現在に繋がる新しい技術、例えば、遺伝学的手法による系群判別や種判別、耳石の日周輪解析技術などが盛んに導入されました。平成8年(1996年)、日本は国連海洋法条約を批准し、平成9年(1997年)にTAC制度(漁獲可能量制度)が導入されました。これにより水産資源研究は新たな時代に入りました。当初はTACが導入された6魚種はサンマ、スケトウダラ、マアジ、マイワシ、マサバ及びゴマサバ(1魚種とみなす)、ズワイガニで、1年後にはスルメイカが加わりました。海区水産研究所ではTAC魚種を含む43魚種で資源評価を実施することになりました。平成10年(1988年)には、TAC制度の下での新たな水産資源研究やつくり育てる漁業の推進などに対応するために、海区水産研究所の組織・役割分担の見直しが行われました。
水産海洋研究
我が国の組織的な海洋定点観測は明治33年(1900年)、農商務省の水産局によって行われた沿岸定点観測が起点です。その後、明治42年(1909年)に、水産局の北原多作技師の提言により、漁業基本調査として全国的で体系的なモニタリング体制が構築されました。明治43年(1910年)、全国28府県の水産試験場により、水温・比重観測、プランクトンの定量採集などの定点観測が実施され、調査報告は毎年1回刊行されました。
本格的な海洋調査の始まりです。
大正7年(1918年)には、前述の第1回海洋調査主任事務打ち合せ会が開催され、各府県の試験研究機関の協力のもと、全国各地に60観測ラインが設定されました。毎月、隔月あるいは季節ごとに海洋調査が実施されるとともに、月ごと海洋図が発行されました。海洋図には水温・塩分の分布に加えて、各地の漁況の概説が掲載されました。また、調査データは定期的に海洋調査要報として公表されました。海洋調査の実施体制だけでなく、調査結果の広報体制が確立された時代といえます。なお、海洋図は一時的に中断があったものの、昭和32年(1957年)まで発行され続けました。
昭和38年(1964年)に、我が国の各地で異常冷水現象が発生し、水産重要種を含む海洋生物の異常へいし現象が観察されました。これを受け、緊急的に異常冷水対策調査が行われるとともに、沿岸・沖合漁業漁況予報事業が全国規模で始まりました。これにより我が国の沿岸沖合域をほぼ毎月カバーする海洋定線観測体制が構築され、現在に至っています。
現在
平成30年(2018年)の改正漁業法の成立は、水産資源研究にとって大きな転機でした。漁業法の改正をともなう一連の水産政策の改革の中では、MSY(最大持続生産量)ベースの資源評価、目標管理基準や限界管理基準といった資源管理基準値の設定、資源評価対象種の拡大、調査船調査の充実、情報収集体制の強化などが求められてきました。このような社会的情勢を受け、国立研究開発法人水産研究・教育機構は、昭和24年(1949年)から70年以上継続してきた海区水産研究所体制を令和2年(2020年)に再編して、水産資源研究所と水産技術の2所体制となりました。水産資源研究所では、水産資源の持続的な利用のための研究およびさけます資源の維持管理のための研究開発を行っています。
令和3年(2021年)から5か年の期間で始まった第5期中長期計画において、水産資源研究所が水産資源の持続的な利用のための研究開発として重点的に取り組んでいる事項は、水産資源の最大かつ持続可能な利用に資する資源評価の高度化、資源評価対象種の約200種への拡大、資源評価の高度化や資源強化対象種拡大を支えるICTなどの基盤的な研究開発、気候変動に対応した海洋環境や資源変動に関する研究開発です。
この中から水産資源研究に関する最近の取り組みを2つ紹介します。
最小は、神戸プロットによる資源状態の可視化です。神戸プロットは資源(親魚)の状態を横軸に、漁獲の強さを縦軸にして、1つの図にまとめたもので、ある魚種の各年の資源状態をわかりやすく示すために使われます。なお、神戸の名前の由来は、平成19年(2007年)に神戸で開催されたまぐろ類地域漁業管理機関合同会合でこの図の採用が合意されたことによります。
次に、改良版我が国周辺の海況システム(FRA-ROMSⅡ)です。FRA=ROMSⅡは日本周辺の海況を一体的に予測するシステムとして、令和4年(2022年)に運用が開始され、漁場形成の予測、水産資源の変動予測や変動要因の解明、大型クラゲの来遊予測などの水産海洋研究の基盤情報として活用されています。
以上、本稿では国立研究所開発法人水産研究・教育機構の水産資源研究125年につい概説することに努めましたが、紙面の都合上、紹介できたのは一部の留まります。本稿の主要な部分は中央水産研究所(2000)を参照しています。
それまでは漁師さんたちの経験や勘あるいは伝承だった漁業から、魚種を観察し、分類し、そして魚の生活史を把握して科学的な手法で資源管理をするような時代に入ったのが、明治19年(1886年)だったようです。
最初は国内の海から始まり世界の海までその研究は網羅され、100年後には世界中からこんな魚も食べられるのかと輸入されるようになり、誰もが格安で生魚の寿司をいつでも食べられるような時代になりました。
日本は海に囲まれているから魚が豊富だと思っていた1980年代半ば、東南アジアの小さな漁村で出会った漁師さんに、「根こそぎ魚をとって高級な魚は日本へいくからとれなくなった」と言われ、そしてその40年後には魚がとれなくなり、さらに魚を買えるだけの経済的余裕もなくなり魚は海外へと売られる時代になりました。
科学的な手法による水産資源管理を取り入れて約140年、先日引用した記事の技官集団の水産庁プロパーは、奥原改革に前向きでないの一文から、中には純粋に魚をとりすぎない漁業管理の研究に打ち込んで利潤を追うこととは一線を引いていらっしゃった方々もいたのだろうなと、ふと思いました。
1980年代ごろからの日本は魚を食べすぎているのではないかという漠然とした不安が、今や世界中で魚を狙う時代になってしまったような。
そんなことを思いながら水産研究の歴史を読みました。
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