皿うどんに満足して、また土砂降りの中を歩き始めました。
傘が意味をなさないほどずぶ濡れの中をあと1.5kmほど歩くのはちょっと辛いなと思っていると、なんと商店街に黒石や長岡など雪国の雁木(がんぎ)を思い出すような軒があり、助かりました。
九州だと、雨の日のためでしょうか。
14時にはホテルに入りました。
雨が打ちつける窓から柳川の街や田んぼを眺めていたら、もっと歩いてみたくなりました。
翌日4日目は9時過ぎには柳川を出発して遠賀川へ向かう予定ですが、今日歩けなかった場所を朝早く歩いてみることにしました。
4日目の朝、テレビをつけたら「長い水路をつくり太陽で温めてきた」「大地の恵みに感謝。水路をつくってきた先祖に感謝」と聞こえてきて、三島の中郷温水池かと思ったら、北アルプスの田園でした。
広大な水田地帯に家が点在する次の風景に散居村を思い出したら、仙台の「いぐね」と呼ばれる防風林だそうです。
田んぼはただ集約化すれば良いわけでもなく、風から集落や田畑をまもりそして水を温めて使えるような水路を造り、「先祖に感謝」の一言も地域によってさまざまな歴史がありますね。
今日はどんな田んぼと集落に出会うでしょうか。
*今古賀から藤吉へ*
4日目の朝、8時にホテルを出て、西鉄柳川駅の南側へと歩き始めました。
地図には、水色の水路が複雑に描かれたクリークが残る地域で、その名も三橋町今古賀でいつ頃の干拓でしょうか。
駅のそばからすぐに水田地帯で、その畦道は高校生の自転車通学路になっていました。
まだ田おこしが終わったばかりだというのに、どこからともなく稲の香りがします。
ああ、なんと幸せな散歩でしょう。
そして地図の通り、目の前には行き止まりになった水路が複雑にあります。
7~8年ほど前にマップを拡大しながら息を呑んだあの「網の目のよう」とも違う複雑な水路を知ったのですが、自由自在に拡大縮小して鳥の目のように地図を眺める技術がなければ、今もその存在に気づいていなかったことでしょう。
近くの電柱には「海抜3.1m」とありました。
海岸線からは数キロ以上離れているというのに海抜3mですから、広大な遠浅の干潟を気が遠くなる時間をかけて陸地にし、そこに真水を得られるクリークを作った。
圧倒されながら国道208号線を渡り、三橋町藤吉地区へと入りました。
水路にはところどころ小さな水門があります。どんな水の管理があるのでしょう。
途中、水路を渡りさらに西へと歩くと、水路に囲まれた神社がみえてきました。
「風浪神社」、地図で見つけたこのクリークの真ん中に建つ神社をぜひ訪ねてみたいと思っていのでした。名前の由来も気になったのですが、御由緒はわかりませんでした。
参道から水路に囲まれた境内へ。なんとも心落ち着く場所です。
あきらめずに、今朝出かけてみて良かった。
そばで家を建てていた大工さんが、私が参拝する間、ドリルを使うのを止めていくださったように感じました。静寂をありがとうございました。
*柳川城外曲輪土居と瀬高御門*
風浪神社の先の道を北へと曲がると、一面麦秋の風景になり、水路と二ツ川に挟まれた道を歩いていくと、西側の住宅地の方が一段低い、公園のような場所に出ました。
柳川城外曲輪土居(やながわじょうそとぐるわどい)
この土居(堤防)は、柳川城の東大手瀬高御門より眞勝寺土居に続く藤吉、今古賀の土居として江戸時代には、柳川城惣曲輪(そうくるわ)の「外曲輪の土居」といわれた貴重な遺跡です。
曲輪とは、城の周囲に築いた土居やかこい、領域のことで、惣領分曲輪、城中曲輪、町惣曲輪、外郭曲輪などがあります。
柳川城は、永禄年間(一五五八〜六九)に、蒲池鑑盛(がまちあきもり)によって築城され、総曲輪は鶴の形をしていました。
慶長六年(一六〇一)には、田中吉政が柳川城の天守閣を築き、四方に城堀をめぐらし、石塁を高くして城の防衛を強化しました。
その後、元和六年(一六二〇)十一月二十七日、柳川城主に再任された立花宗茂及び歴代藩主によって外郭曲輪も改良、整備されました。
『柳川城沿革』によると、「瀬高御門北の際から北の角まで四二四間(七六三メートル)、鋤崎東の角北側から井手橋門(いでのはしもん)東の際まで三五三間(六三五メートル)、外曲輪土居の総合計七一六三間(一二八九三メートル)、即ち三里十一町二十三間とす」とあります。
こうして、明治四年七月十四日の廃藩置県までの約四〇〇年間、柳川城外郭曲輪の土居は、西原一甫(にしはらいっぽ)著『柳川名勝図絵』にあるような松並木の土居でした。
しかし、歴史の流れの中で、いつしか大部分はなくなり、この土居も変貌し、今は櫨(はぜ)・榎木の喬木(きょうぼく)や雑木が繁茂する土居となっています。
どこまでも平地のクリークに気を取られていましたが、この辺りが柳川城の外堀の境界だったようです。
「総曲輪は鶴の形」、空からしかわからないようなところにも意匠を凝らしたのはなぜだろうと思いながら歩いていると、堀の中に大きな鳥の置物が見えました。と思ったら、本物の白鷺が佇んでいました。
眞勝寺の墓地と二ツ川にはさまれた道をさらに北へ向かうと、二ツ川が広い堀の趣になり、また案内板がありました。
瀬高御門外の道標(せたかごもんがいのどうひょう) 藤吉
この道標は、文政十一年(一八二八)に歌人大村春樹によって瀬高御門の正面に建てられたみちしるべです。藩政時代、同じ柳川領内でも瀬高御門を一歩出ると寂しい田舎道で、旅の安全を守り、合わせて疫病神の城下への侵入を防ぐため建てられたものでしょう。
正面は西を向き、中央に「猿田彦太神(おおかみ)」右横に「すぐ北せたか道 左西やな河まち」、左横に「右西やな河まち すぐ南ミけ(三池)道」と刻まれています。猿田彦太神は、道や衢(ちまた)を守る神で、道の分岐点、追分、村境などに建てられ、道祖神として、信仰の対象となっています。
静かな市街地ではありますが、住宅の多いこの地域もかつては寂しい場所だったようです。
*柳川城堀水門へ*
地図で見つけた場所をもう一つ目指しました。
二ツ川から西へ細い水路があり、そこに「柳川城堀水門」があります。どんな水門なのかみてみたいと思っていました。
県道を渡り、住宅の間の細い路地を北へ歩くと、東屋のある小さな公園が見えました。
その公園との間に3mほどの小さな橋がかかっています。そして公園の先にも小さな石橋があります。
柳川城堀水門
この水門は、場内に入る唯一の水門で、城の防禦用に築造されました。万一の場合はこの水門を閉め、上流の矢部川の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河、宮永を残して周辺は水びたしとなり、全く島のような状況になったと言われています。このような壮大な水の仕掛けをもっていたことから、柳川城は水の城と呼ばれ、名城のひとつにかぞえられました。水門の規模は、両壁の幅2.6m、長さ15.7m、高さ3.8mで、平均50㎝の角石を積み重ねて造られています。また基礎には幅20~30cm、長さ15cmの板が敷き並べてあり、堰板つき石組水門です。
水門の右手には、俳壇の巨匠高浜虚子が柳川を訪れた際に詠んだ句「ひろごれる春曙の水輪かな」を刻んだ句碑が建立されています。
海抜3mの地に立つ城は、水攻めとは反対に、堤防を壊して水門を閉めてあえて水に囲まれた島にする仕掛けだったようです。
しばらく幅の広い堀が続き、土木組合や古文書館など落ち着いた建物と柳が美しい道です。
鋤崎土居(Sukisaki-Bank)
旧藩時代、柳川には交通や戦略上の役目を終えた水路が縦横に掘られました。ここ鋤崎土居の堀は、奈良町条里の堀を広げてつくられたもので、東方を衛る外城の土塁跡であります。堤上には大樹が茂り、昼なお暗く人々を怖がらせたところであります。昔は、このような堀を擁した土塁が、「外城三里」を囲んでいたと言われています。
ここから西にある柳川城跡まで1.5kmほどですから、外堀が守る範囲は広いですね。
その外側には広大な干拓地による田んぼと集落が点在しているのは、現代と似ているでしょうか。
ここ数年で歩いた中にかつての城下町が増えてきましたが、それまでは城下町というと天守閣や大名のことしか思い浮かびませんでしたが、こうして歩いていると、城下町というのは水路や川の付け替えなど治水と利水技術の記録ともいえるような気がしてきました。
すでに廃城させられても、城下町というのは少し歩いただけでもその技術が生かされながら生活が続いている。
だから落ち着いた街が多いのかな。
そして地図を眺めていると、本当に各地に「城跡」がたくさんあります。
これもまた水田が健在の理由なのかもしれませんね。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
「城と水」のまとめはこちら。
生活とデジタルについてのまとめはこちら。
「お米を投機的に扱わないために」のまとめはこちら。