ここ数年、自分でもまさかこんな人生を送るとはとびっくりするほど、全国あちこちを歩き回るようになりました。
「次はどこへ行こう」と計画が尽きないのは、大好きな地図を眺めているうちに、堰や水路あるいは災害で耳にした地名などがつながり合って遠出の計画ができるからです。
ですから、行く前は目的地をつないで交通手段を確認して計画を立てるのに精一杯で、帰宅してから復習していくうちに初めてその土地の歴史を改めて知ることになります。
準備不足と言われればそれまでなのですが、最近は「実際に行ってみないとわからないことがたくさんある」と開きなおっています。
そんな遠出ですが、柳川についてはとても大事な歴史を事前に知って出かけました。
*かつては「がっかりした」「汚くて驚いた」と言われていた*
それは、偶然見つけたミツカン水の文化センターの「堀の記憶が成し遂げた、柳川再生物語 「水の会」の18年の歩み」という記事に書かれていました。
水郷で有名な柳川も存続の危機を経験しています。多くの人の注目を集めた広松伝さんの活躍は、土地の風土と歴史を振り返り、掘割を市民の手に取り戻そうとしたことから始まりました。水の会がその志を引き継いだ背景にある、人と仕組みと地場の資産を探ります。
柳川には、中心部のたった2km四方に60kmもの水路が、東西11km、南北12kmの柳川市全域ではおよそ930kmの水路が張り巡らされているという。
ところが、1977年(昭和52)、幹線水路以外を埋め立て、下水道にするという計画が浮上した。
水路の汚染が進み、「汚い」「臭い」「蚊が大発生」という事態にまで環境が悪化。当時の古賀杉夫柳川市長は、これ以上の維持管理は不可能と判断した。
「水郷柳川」を訪れた観光客から寄せられた手紙にも、「がっかりした」「汚くて驚いた」という文字が並んだ。その最悪の状況から、どんな再生の物語があったのか。
柳川で掘割を埋め立てる計画が浮上した数年後、私は筑後川右岸の佐賀の友人宅を訪ね、そこが同じクリークであることも知らずにいました。
あの日の稲穂の良い香りが記憶に強く残っているので、この記事を読んで、同じ風景でも観光客にはそう見えることにちょっと驚きました。
まだ下水道が完備されていない中、工業化と急激な人口増加で「水辺というのはゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」という時代だったからかもしれません。
そして農業の近代化のための「クリーク離れ」が起きはじめた時代でもあったようです。
では、なぜあれから40年以上経っても息を呑むような美しい水田地帯とクリークが残っていたのでしょう。
*「掘割はクリークではない」*
その記事に「掘割はクリークではない」があります。
数年前に初めて佐賀の干拓に関心が出た時にまず知ったのが「クリーク」という用語でした。その頃に読んだWikipediaでも「堀(クリーク)」とあり、「クリークの呼称は戦中(昭和以降)に使われるようになった外来語で」、それ以前は「堀」とか「ほい」と呼ばれたことが書かれていましたが、その背景がわかりました。
掘割は、川でもあり池でもある。英語のクリーク(creek)とは違う、と水の会の立花民雄会長(柳川城主立花氏の子孫。柳川市観光協会会長)はいつも言っているそうだ。クリークは米語では小川、英語では小さな入り江のことを指すから、自然にできた潮が上がってくる水路をいうのだそうだ。だから、ここでいうと冲端川や塩塚川は、クリークである。
掘割は自然な地形を利用しているが、人工的な手が入っているから正確にはキャナル(canal)。
立花会長の記憶によれば、最初に言い出したのは北原白秋(柳川出身の文学者)ではないかということ。今ではその誤用がすっかり定着してしまった。
数年前だったら、私も両者に何の違いがあるのか読んでも理解できなかったと思うのですが、今では満潮時に海水から押し上げられた「淡水(あお)」の貯水機能という重要な意味が「クリーク」では伝わらないということを言いたいのだとわかります。
その真水を得るための仕組みが書かれています。
水はけっして豊かではない
私たちは、柳川をつい「水が豊な地域」と思いがちだが、実は真水を得にくい地理的条件がある。
柳川は、筑後川が運んだ土砂でつくられた沖積平野。最大6mの干満の差がある有明海では、干潮時には大きな干潟が出現する。柳川に限らず、河口付近の平野の耕地化は、こうした干潟に掘割を切って排水を促し、掘り上げた土を盛ることによってつくられてきた。
よく、「世界は神がつくった。しかし、オランダはオランダ人がつくった」と言われるが、河口付近の低湿地を人力で耕地化するには、尋常でない努力が必要。また、井戸を掘っても真水が得られないから、干拓地は水源に乏しい。頼れるのは雨水と川水である。
掘割は、土地の水はけのためにつくられ、そこから掘り上げられた土は耕地や住宅地や土居(堤防)に利用され、さらに真水を備える「溜池」機能も果たすのである。
掘割の水は、磯鳥堰(いそどりせき)という防潮堤の上流で取水しているので潮が入っていない。干潮の時には排水されるようになっている。
(強調は引用者による)
最後の一文に、今もめまいがするほどの敬意の念が起こります。
どうやって干満の差を利用して真水を得ることを知ったのでしょう。
そして治水の機能も考えられていることが書かれていました。
ゆっくり流して
柳川では、上水道ができるまでは、飲料水も掘割から得ていた。一晩かけて澄切った朝一番の水を、大きな水瓶に汲み置いたという。
排水は、池に溜めて沈殿させてから流したり、水芋を植えて水を浄化させた。おむつを洗った汚水は庭に掘った「タンボ」と呼ぶ穴に流し、直接掘割に流すことはなかった。
今、水道水は筑後川などから取っている。また、新田開発が進んで足りなくなった分の農業用水は、筑後川導水から引いてきているという。
柳川中心の2km四方、60kmの水路の水は、主に瀬高水門から入ってくる。しかし、頼りにすべき矢部川は総延長60kmの小河川で、実に1万6000haもの耕地をまかなわなくてはならない。
掘割では水はゆっくりと流れるが、大切な水をいっそう長く停留させ活用するために、柳川の人たちは、さらに「もたせ」という工夫を考え出した。
「もたせ」を俯瞰してみると、橋が架かっている場所などでは、堀の幅が狭まっている。幅が狭くなっているので、その手前で水はいったん、停留する。狭い所を流れる時は速くなるので、水を攪拌して酸素を送り込む作用もある。
断面方向に見ると、上が開いた台形に造られている。このため、水が増えたときに貯留できる水量が、少ないときよりも多くなるのだ。こうしておけば、満潮時に雨が降って排水できないときにも、掘割に貯留することで氾濫を防ぐことができる。たとえ氾濫しても、じわじわあふれるだけで、潮が引くときに、掘割が排水路の役目を担ってくれるのである。
つまり、掘割には、少ない水を有効に利用する利水機能と、水勢や水量を調整して洪水を防ぐ治水機能が一体となった、非常に賢いシステムがあるのである。
(強調は引用者による)
「網の目」とも違う複雑な形の理由と、目の前が真っ白になるような本降りの雨でも水路からあふれない理由がわかりました。
やはり「掘割」は「クリーク」とは違う。そう思います。
ちなみに「堀割」ではなく「掘割」だそうです。日本語は本当に難しいですね。
*人を説得するために勉強を始め、「掘割の歴史の側面、科学の側面から検証」*
最近は未曾有の感染症拡大や災害からの復興でさえ観光が優先されたり、世界でも戦闘で住民を強制的に移住させて観光地にするとか、「観光」は人の生活を骨抜きにするかのような言葉になったこの頃です。
水辺の景観というのは人の心を惹きつけますし、ちょうどあの「美しい日本と私」という観光の風潮が広まりつつあった頃ですから、柳川の掘割の保存は観光のためだろうと思い込んでいました。
ある市職員の挑戦
こんなにも豊な水の仕組みを持っていた柳川も、高度経済成長期にはご他聞に漏れず、掘割存続の危機を迎えていた。
上水道敷設によって飲み水として使わなくなったことが、水を大切にする心を失わせてしまった。加えて、合成洗剤の使用、脂分の多い食生活への嗜好が、掘割の水の汚れに拍車をかけた。
利用されなくなった水は汚れ、汚れた水には親しみが消えて、いつしか水路はゴミ捨て場となった。ビニールや缶など自然に戻らないゴミもどんどん水路に捨てられた。
元・柳川市長の古賀杉夫さんは、汚れ切って悪臭を放ち、機能を終えたように見える掘割を、幹線水路以外は埋め立てて下水溝をつくることで、市民の環境改善を図るしかないと判断した。
ところが、国から6割の援助を取り付けて、20億円に上る工事計画が決まった矢先に、都市下水路係長だった広松伝(ひろまつつたえ)さんが「待った」をかけたのである。
広松さんは、以前の担当が上水の仕事だったことから、川と土地との関係を熱心に調べて理解しようと努めてきた人だ。広松さんの熱心な説得に、古賀市長が出した条件は、6ヶ月の猶予を与えるから、実現性の高い代替案を作成せよ、というものだった。
いったん決まった計画の見直しが、いかに大変なことかは、想像に難くない。今でこそ、ダム計画の白紙撤回といった画期的な計画見直しが実現しているが、1970年代後半(昭和50年代)には考えられない英断だったといえよう。それには、古賀市長の「昔に返せるものなら、それに越したことはない」という思いが込められていたのである。
あちこちの現地に足を運び、データを集める以外にも、住民を説得して同意を得るという役目を一人で負った広松さん。人を説得するために勉強を始め、このことが掘割を歴史の側面、科学の側面から総合的に検証する、初めての研究となった。
(強調は引用者による)
「水路を埋めれば柳川は水没してしまう」と住民に呼びかけ、「水の会」の活動へとつながったことが書かれていました。
出かける前に偶然、干拓地の掘割の機能を保全することから始まったこの運動を知ることができたので、「観光資源」とは違う視点で守られてきた美しい柳川の半世紀後の風景を歩くことができたのでした。
「掘割を市民の手に取り戻す」
それは、真水を得てそれを溜めて生活するための知識と技術とその歴史を正確に伝える、そんな感じでしょうか。
「運動のあれこれ」まとめはこちら。
合わせて「下水道についてのあれこれ」もどうぞ。