折尾駅に到着し、JR鹿児島本線に乗りかえて一駅の水巻駅へ向かいました。
ところが車窓から見えていた通り、下車すると吹き飛ばされそうな風が吹いています。
遠賀川から1kmほど内陸なのにこれは川風なのだろうか、それとも前日通過した低気圧の影響でしょうか。
計画では遠賀(おんが)川右岸の堤防沿いに歩き、両岸の支流が合流するところにかかる橋を渡って遠賀川魚道公園を訪ね、そして左岸側の船頭町からバスに乗って折尾駅へ戻るというものでした。
ところが住宅地を歩くだけでも吹き飛ばされそうな風に、大きな川を渡る時の妄想が現実味を帯びてきました。
九頭竜川とか荒川とか最上川や赤川、今まで何度もこの川風のことを計画の段階で忘れてしまうのでした。
*伊豆神社へ*
でもせっかくきたので、伊豆神社を訪ねようと思いました。ところが、駅前の交通量の多い国道3号には歩道橋しかなく、しかもところどころ穴が空いています。ひゅうひゅう音がする中、まさかの歩道橋から転落して轢かれる妄想に怯えながら渡ったのでした。
渡ってほっとしながら歩いていると、「お米は鮮度が一番、わがふるさと、おんが米」の看板がありました。いい看板ですね。
どのあたりに田んぼがあるのでしょう。
まっすぐ歩くと、駅の北側のつきあたりが小高くなっていて、鬱蒼としているのが伊豆神社の鎮守の森のようです。
石段の下で自転車を押したおばあさんが一礼をしていかれました。この風の中で自転車が倒れませんように。
見上げるような石段を登っていく途中で、私の方が足が滑って転び落ちそうになりました。湿った木葉かと思ったら、なんと生の手羽先で、カラスかトンビの仕業でしょうか。危ない危ない。
由緒
元亀二年(一五七一)頃末地区の開拓に伴い古賀鎮座の伊豆大明神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立。依ってこの山を明神ヶ岳という。大正三年(一九一四)此の地に遷座、現在に至っている。(以下略)
この山の北西側に「古賀」という地名があるので、干拓による「開拓」でしょうか。
合祀神社貴船神社は「雨」の神様として広く各地に祀られており、幸神社は「咳」の神様として、又唐熊神社は、安政四年(一八五七)悪病流行しその消除の為建立されたが、大正三年、三社同時に伊豆神社に合祀された。
当神社は水巻町の中央に位置し、地域の平和と安全、特に除災開運、無病息災、農作物の神として広く尊崇されている。
「わがふるさと、おんが米」が作られるようになった歴史をもう少し知ることができるでしょうか。
風の強さに心が挫けそうでしたが、「おんが米」という名前から背中を押されました。計画通り水巻町歴史資料館を訪ねてみましょう。
もう一度振り返ると、五月晴れの空に鎮守の森、そして大きなしめ縄のある社殿と鳥居が美しい神社でした。
ここにも腕の良い棟梁がいらっしゃったのでしょう。
*水巻町歴史資料館から遠賀川河口堰へ*
伊豆神社から明神ヶ岳の北東へと山に沿った住宅地を20分ほど歩くと、小高い場所におしゃれな建物が見えました。県道側からのエレベーターは工事中で、また急な階段を登りました。
想像していた鄙びた資料館とは違う大きな建物ですが、そのほとんどが図書館のようで、一角に小さな資料室がありました。
残念ながら展示の撮影は禁止で、遠賀川のそばの生活史や干拓の資料もなさそうです。
ただ、渡ろうと計画していた橋は「遠賀川河口堰」であることが大きな地図に表示されていました。
この風ですから、ここで引き返そうと思っていたのですが、河口堰があると知ったら近くまで行ってみたくなりました。
バスの時間まで少しあるので、古賀、牟田地区そして「樋ノ口」バス停まで干拓地を思わせる地名に想いを馳せながら、ここから乗りました。運河のような曲川が蛇行しながら流れているそばを走り、東側からの江川が合流するところがバスの終点の営業所です。
そこからまた1kmほど北へと江川沿いに歩いてみましたが、強風の中、江川を渡る橋でさえもためらわれ、200mほど西にある河口堰も遠賀川本流も見ることができずに営業所へ戻り、折尾駅のバスに乗りました。
バスを待つ間も、耳元をひゅうひゅうと強い風の音が過ぎていきます。
私の生活圏ではまず経験することのない強風の中、地元の方が散歩をしていました。
*水巻の歴史*
Wikipediaの水巻町に書かれていた「歴史」は、ちょうど私の人生と同じ時期にあたります。
かつては算出される石炭を元にした鉱工業が盛んであったが、エネルギー革命の影響を受けて急速に衰退した。最盛期の1960年代初頭に約3万5000人に達した人口は炭鉱閉山が進むとともに減少を続け、1970年代(昭和45年)以降は過疎地域に指定された。しかし、日本炭鉱古賀社宅跡地を住宅都市整備公団(当時)梅ノ木団地として再開発した事を筆頭に北九州市に近接する地の利を生かし同市のベッドタウンとして発展し始めたことで人口は増加に転じ、過疎地域指定は1990年(平成2年)に解除された。同年以降、人口は漸増傾向にあったが2005年(平成17年)の国勢調査で再び緩やかな減少に転じている。人口は2015年現在、約2万九千人であり遠賀郡では岡垣町につぐ規模である。町域の大半が市街地化されており人口密度は2500人を超え、隣接する北九州市より高く、同市最多の人口の八幡地区とほぼ同水準である。
「樋ノ口」バス停の近くに大きな団地がありましたが、あそこがかつての炭鉱住宅跡で、さらにそれ以前は干拓地の水門があり稲穂が広がっていたのでしょうか。
「水巻」はどんな由来があるのでしょう。
遠賀川右岸の丘陵地帯には崖っぷちのような山肌から水辺のような場所まで「瀟洒な住宅地」が広がる、この半世紀の風景がありました。
そして明治から昭和30年代まで、石炭の運搬に利用されていた頃の水質が悪かった遠賀川が改善されていった半世紀だったようです。
遠賀川河口付近を歩いてその生活や歴史をもっと知ってみたいものです。
幻の風景のまま、散歩が終わりました。
今度訪ねる時には風の予報も確認しなければ。
そして大きな川のそばでの生活は、ほんとうに忍耐が必要だと畏敬の念が湧いてきました。
*おまけ*
かつてここに捕虜収容所があったことが書かれていました。
太平洋戦争において、インドネシアなどの南方で捕虜となった連合国軍兵士の一部が水巻町の捕虜収容所に収容され、炭鉱などの強制労働に従事した。しかし、食生活の違いから起こる栄養障害や事故などにより、多数の死者が出た。終戦後、生き残った捕虜はそれぞれの国へ帰還した。それからしばらくが経過し、1985年(昭和60年)、元オランダ兵捕虜らが結成した慰霊団が40年ぶりに水巻町を訪問した。それ以来、日蘭交流が始まり、今では行政同士での日蘭中学生交流事業など多方面での交流が進められ、友好の輪が広がっている。
戦争の禍根だけでなく、政治や経済の混乱と葛藤もまた何世代にも及び、それを希望に変えるには時間がかかりますね。
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