2022年にJR鹿児島本線の車窓から見えた洞海湾に、いつかあのあたりを歩いてみたいと時々地図を眺めていました。
長細いその湾は、海に向けて口を開けているトカゲのように見えます。
そして西へと伸びた尻尾のような水色の線はどこに繋がっているのだろうとたどっていたら、瀬板貯水池に沿って南へと伸びる金山川で、これが流入河川のひとつでしょうか。
その途中でもう一つ細い水色の線が西へと向かっていて、地図を拡大しながらたどっていくと、遠賀川支流の曲川とつながっていました。当時はまだ水路名が表示されていなかったのですが、途中に堀川歴史公園と河守神社を見つけました。
おそらく運河で、その水の神様に違いありません。いつか水巻のあたりを訪ねることがあったら、ここを歩いてみよう、散歩の計画ノートに書き留めたのでした。
その1年後、なんとブラタモリの「北九州〜合体メガタウン!北九州市誕生の秘密とは」でそこが映し出されたのでした。
ようやく九州再訪の機会が訪れたのですが、今回は遠賀川河口を歩こうという計画になり、堀川を歩く計画は時間が取れませんでした。福北ゆたか線の車窓から折尾駅の手前で堀川を見逃さないようにと集中し、「堀川 小さい」とメモしていました。
*堀川と洞海湾の歴史*
いつか堀川沿いに洞海湾まで歩いてみたいものです。
と、遠賀川流域の歴史を読んでいたら、「中流の寿命(桂川町)から洞海湾に通じる堀川運河」と書かれています。
曲川までではないようです。
もう一度地図を見直すと、たしかに曲川を超えてずっと南へと続き、遠賀川右岸に黒川が合流する中間市のあたりまで「堀川」、こちらは新々堀川ではなく「堀川」と表示された水路が続いていました。
ただ、桂川(けいせん)町はまだまだもっと南西ですが、マップではその辺りに堀川を見つけられませんでした。
国土交通省の「遠賀川の歴史」に「堀川」の説明があり、添付されている古地図を見るとたしかに中間市よりもさらに上流へと続いていました。川の付け替えなどで変わったのでしょうか。
堀川
遠賀川の治水対策に関係する主な人物に黒田長政がいます。平地に流れ、少雨でもすぐ水害になってしまうといわれていた遠賀川流域を豊な穀倉地帯にしようとした長政は、「新しい運河を掘って遠賀川の水を洞海湾に導けば洪水も少なくなり、運河周辺の田にも水がいって米の収穫量も増えるに違いない」と考えました。そして、元和7年(1621)に中間から洞海湾に通じる水路の工事を命じました。これが堀川工事の始まりです。堀川は「運河」という意味です。それがいつからか元々の名のように呼ばれるようになったのです。
てっきり、遠賀川から洞海湾へ、物流のショートカットのために造られた水路だと思い込んでいました。
稲作のための治水と利水のためだったとは。
しかも17世紀から18世紀ですから、ほんとうに江戸時代の土木技術は目を見張るものがあります。
そしてこの国には治水や利水の歴史があちらこちらに記録されていますね。
そして200年後には石炭の輸送で利用され、北九州沿岸の工業地域の発展につながった。
ただ、水運は徐々に鉄道にとってかわらていったようです。
1762年(宝暦12)の堀川の完成によって、冬の季節風をまともに受ける芦屋をさけ、直接に洞海湾内の若松への艜(たい)の航行が可能になったので、以降、商品の多くは若松に送られるようになった。幕末には年間、延べ2万艘の艜が上下し、約8万tの米、石炭を積み下ろしたと推定される。遠賀川は筑豊経済の大動脈であった。しかし、1893年、現在の筑豊本線が開通してからは、石炭その他の商品は鉄道を利用して若松、門司に送られるようになり、遠賀川の水運は使命を終えた。
(世界大百科事典「遠賀川」「水運の歴史」)
4日目の宿泊地を若松にしたのは行き止まり線の駅を見てみたかったことと、洞海湾を眺められること、渡船に乗れることが理由だったのですが、堀川と水運の歴史に重要な場所だったようです。
*おまけ*
ところで、今年の6月ごろからマップに水路名が表示され始めたのですが、「堀川」ではなく「新々堀川」になっていました。
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