落ち着いた街 90 洞海湾のそばで暮らす

強い川風のために4日目の午後の計画はほぼ実行できなかったのですが、水巻の町を歩きおんが米を知ることができたので満足しました。

 

折尾駅からJR若松線に乗り、4日目の宿泊地に向かいました。

2両編成の新しい車両の列車です。本城駅までは北側が切り通しで、その間にどちらに流れているのかわからない水路が見えました。洞海湾が近づき、大きな水路を渡ったと思ったら江川で、あの水巻町の終点で曲川に合流する川でした。Wikipedia洞海湾の「関連項目」によると「江川(福岡県)ー水源のない両側に河口がある感潮河川」とありますから、鳴門の撫養(やむがわ)や和歌山の和歌川と同じですね。

満潮の時には、遠賀川河口堰から海水を含んだ水がこの江川から洞海湾へと抜けるということでしょうか。なんだかすごいですね。

 

奥洞海駅の辺りから時々海が見え、山側には住宅地が広がる風景になりました。

海風でしょうか、少し海面に白波が立っていました。

 

実は、洞海湾を検索していたら工業化で「死の海」と呼ばれるぐらい水質汚染がひどいと書かれていて、そんなところに宿泊するのもどうかなとちょっとびびっていました。

ところが確かに臨海部は工場が多いのですが、木々も多く、美しい風景です。

16時18分若松駅に到着。海側にはマンション群が建っていました。

 

*石炭輸送に特化した駅と街の俯瞰図*

 

駅構内にパネルが何枚かありました。

若松 石炭の記憶

 

若松駅

 筑豊興業鉄道株式会社によって、筑豊炭田の石炭輸送を目的に若松ー直方間に路線が敷設され、1891(明治24)年8月30日に若松駅の営業が開始されます。若松駅の使命は、筑豊炭田より石炭列車で運ばれてくる石炭を鉄道から船へ積みかえて国の内外へ積み出すための中継作業で、対岸の戸畑、北海道の室蘭、小樽と共に国鉄の数多い駅の中でも石炭輸送に特化した特異な駅として誕生しました。石炭輸送の進展が進む中、鉄道路線の増設も行われ明治44年には一等駅に指定されるほど重要な役割をもった大きな駅に成長します。1920(大正9)年には手狭となった駅舎から現在の若松駅の場所に位置する二代目の駅舎(写真)に移転しました。現在の駅舎は1984(昭和59)年に建設された三代目です。1940(昭和15)年には石炭の取扱い量が最大を記録、若松駅は開業以来、明治、大正、昭和と筑豊の石炭と共にその歴史を歩いてきました。

 

 

昭和初期のたくさんの船が停泊し、石炭の積み下ろしの作業が行われている活気のある写真が何枚かあり、そして当時のこの地域の絵図「若松市鳥瞰図」がありました。

吉田初三郎「若松市鳥瞰図」

 吉田初三郎は大正後期から昭和初期にかけて全国各地の俯瞰(ふかん)図を描いた絵師です。旧若松市の市政20周年を記念して、1933(昭和18)年に制作されたもので、大小膨大な数の汽船や帆船、若松の街並みが描かれ、石炭積出港としての繁栄ぶりを物語っています。左の当時の写真と比較すると建物の位置はもとより屋根の形状や窓枠まで、細部にわたって精密かつ奇麗に描かれていることが解ります。建物の色なども実際のとおりに描いているのでしょう。

たしかに、そこに暮らす人の声が聞こえてきそうな俯瞰図です。

当時の若松駅周辺には工場や住宅がぎっしりと立ち並んでいます。その北東部には水田らしい場所も広がっていました。

現在の地図とつき合わせてみると、「迫田町」「棚田町」あたりでしょうか。

 

駅の外側には石炭輸送に活躍した機関車の写真などが展示されていて、駅がまるで博物館のようでした。

 

 

土木遺産と商店街の井戸*

 

せっかくなので海岸どおりを歩いてみようと外に出たら、吹き飛ばされそうな風です。

これでは明朝、渡船は無理だろうかと思ったら、対岸から向かってくる頼もしい船が見えました。大丈夫そうです。

その向こうに真っ赤な若戸大橋が、見ているだけで足がすくみそうな高いところを結び、道路沿いに「強風走行注意」のサインが出ていました。

 

駅の周囲や海岸沿いは街路樹が美しく、かつては石炭積出港だったことも工場地帯のすぐそばであることも忘れそうです。

案内板がありました。

土木遺産 若松港築港関連施設群 弁財天上陸場」

 大正6(1917)年頃、当時の若松市によって建設され、石段の左右の常夜灯は、地元の商店主等によって建てられたものです。ここは、沖仲仕(ごんぞうとも呼ばれた。)をはじめ洞海湾で活躍した人々の乗降や荷役の場として、若松発展の原点のひとつともいうべき地です。現在のものは、平成8年、一部補修を施して、ほぼ当時のままの姿に復元したものです。

積出が機械化される前の、ごんぞうと呼ばれる人たちの小屋も保存されていました。

 

"ごんぞう”ー若松港の繁栄を支えた人たちー

”ごんぞう”の仕事は、体力があれば誰にでもできるというものではなく大変な技術と忍耐力を必要としました。当時仲仕には甲種、乙種と2種類の鑑札が発行されており、正規の"ごんぞう”は皆この鑑札を持っていました。

この石炭の積出は男性だけでなく、女仲仕もいたことが書かれていました。

 

あと5つの土木遺産も見てみたいけれど、海がさらに波立ってきました。

若松の散策は明朝にしようと、早めの夕食を食べてチェックインすることにしました。

 

商店街はやはりシャッターの閉まったお店が多い印象でしたが、両側にいくつも手押しポンプがありました。

さまざまな形で、飲むことはできないけれど現役のポンプのようです。

海のそばで貴重な真水を供給してきた大事なものなのでしょうか。

たくさんの人がここで、石炭などの汚れを洗い流していた賑わいを想像しました。

 

ホテルの窓から、波立っている洞海湾を眺め続けました。

風の音が窓にぶつかって響いています。

テレビから「瀬戸大橋線はやまじ風のために運休した」と聞こえてきました。正確な予報に支えられている毎日を痛感しました。

水巻のあたりと同じように、この洞海湾周辺も強い風とともにある忍耐強い生活なのかもしれませんね。

眼下の商店街は、京長屋のような造りに見えました。

石炭産業で栄えた頃から、1950年代から1960年代にかけてエネルギー革命で石炭産業の終焉を迎えた頃、そして現在までどんな変化があったのでしょうか。

 

一世紀前の繁栄に対してさびれているという感じではなく、あちこちに歴史を感じる落ち着いた街でした。

そうそう、そして1970年代ごろの公害のイメージとは違って海も空もきれいな洞海湾でした。

 

 

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