遠賀川と洞海湾を結ぶ細い堀川は、てっきり石炭産業など物流のための運河として遠賀川と洞海湾を結んでいるのだろうと思っていたら、遠賀川の水を洞海湾に流すことで洪水対策になり、そして運河周辺の田んぼにも水が入って米の収穫を上げられるという治水と利水によるものだったことを知りました。
Wikipediaの「黒田長政」「人物」に以下のような説明があります。
領地の南部、筑紫平野は九州一の穀倉地帯であり、当時は日本有数の米所であった。長政は筑後川から灌漑用水を引き、新田開発を奨励した。遠賀平野においても遠賀川から用水をひき新田開発を行った。糸島では干拓を奨励し、新たに2万石の田畑を開発している。
残念ながら黒田長政の新田開発についての記述はこれだけです。
有名な武将の歴史はたくさんあっても、農業の要であった水路の歴史への関わりについてはまだまだ記録が少ないですね。
あの広大なクリークのある筑紫平野だけでなく、この遠賀川から洞海湾へも新田開発が行われた。どんな風景だったことでしょう。
*「洞海湾の歴史」*
「つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か」(古今六帖)と紀貫之の古歌がある。
この歌からもうかがえるように洞海湾「古名、洞海(くきのうみ)」はその昔、川状をなしていて江川によって遠賀川河口に通じていた。若松は離島であるので、戸畑、八幡との交通はすべて船で行われていた。
外海である玄海・響の両灘は風波がひどいため、神功皇后も洞海湾を通航され、豊臣秀吉の軍船もここを通って芦屋に出ている。
かつての洞海湾は東西20キロメートル、南北が2キロメートルという非常に細長い湾で推進は浅いところで1.5メートルしかなく、干潮時には出船、入船が困難であった。
もともと、地方の一村落でしかなかった若松村が水運の拠点として大きな役割を担うのは、遠賀川の上流一帯で産出される石炭の積出港になってからである。
遠賀川上流の石炭は、戦国期の文明10年(1478年)にはすでにかがり火の燃料として使用された記録があるが、江戸に入ってからは産業としてその重要性が増し、江戸末期の文政13年(1830年)には、洞海湾に藩の焚石(もえいし)会所(石炭監督役場)が置かれるなど、その採掘販売は藩の統制下に置かれている。この間の宝暦13年(1763年)には、約140年間にわたる大工事で開通した堀川運河によって遠賀川と結ばれることにより洞海湾の重要性はますます大きくなった。
明治維新後、石炭は暖房用燃料、さらには製鉄原料として、より一層需要を増すようになった。藩による統制が終わり、民間の鉱山開発が許可されたのに続き明治5年には石炭は自由販売となり、若松の地には、石炭関連の業者が次々と設立され、明治8年には石炭問屋組合が生まれた。当時の石炭は「ひらた船」によって運ばれており、最終積出港は若松であった。明治5年ごろまでは150雙以上に及んだとされている。
一方、明治10年の西南戦争を経て、明治21年に三池鉱山などが三井に払い下げられた結果、三菱、住友、古河などの巨大財閥が進出し、これに貝島、麻生、安川といった地元資産が加わり、筑豊炭田の開発は急速に進む。その生産量は明治18年に年間23.6万トンで日本の石炭生産の18%であったものに対し、明治28年には213.6万トンで同45%と急増した。
このため、輸送設備の整備が急務となり、明治22年に設立された若松築港株式会社(現 若築建設株式会社 本社・東京)等により、洞海湾の浚渫、航路の拡幅などが行われ、石炭の積出港として港内に帆柱の林立が見られる時代となった。
汽船として初めて入港したのは三菱商事の鋼船「江の浦丸」(800トン)で、その姿は洞海湾内の面目を一新したと記されている。
若松は帆船回漕問屋、汽船会社の支店、出張所が次々と設立され、洞海湾は商工業港として海上交通も頻繁となっていった。
戦後の石炭景気の最盛期(昭和30年代前半)には、洞海湾の入出港船は、1日平均2,100雙もあったが、現在では機帆船が小型鋼船に変わった関係もあるが、最盛期の半分以下となっている。
洞海湾の湾口、若松、戸畑間にかば島(通称 中ノ島)があり、藩政時代は、黒田藩三宅若狭家義の小城が築かれていたが城は後に壊された。
この島は幕末当時、台場があり、明治大正期には造船所数けんと貯炭場などがあったが、昭和14年10月当時の内務省が切り取り工事を開始、昭和15年12月に完了し、今はその姿をとどめていない。(北九州風土記による)
また奥洞海湾入り口(八幡製鉄所の西側)に葛島があり葦が生い茂っていたが、埋め立てられ八幡製鉄所と陸続きになり植樹され緑の小山になっている。
(強調は引用者による)
「若松は離島」。現在の地図をしげしげと眺めても、かつてはどこが島だったのかわかりません。江川がその境だったのでしょうか。
それと堀川運河が完成したのが宝暦13年(1763年)で「約140年間にわたる大工事」ということは、ちょうど工事が始まった頃、1623年に黒田長政は亡くなっていますから、その新田開発と治水の成果を見ることもなかったということでしょうか。
その時代の風景はどんな感じだったのでしょう。
*1960年代には死の海へ*
Wikipediaの洞海湾を読み返していて、「死の海」はここに書かれていたと思い出しました。
紀元前3世紀頃に湾が形成され、遠浅で水深が浅く、19世紀まではクルマエビの漁場であった。
秋穂(あいお)を歩いて「車えび養殖発祥の地」があるのを知ったのですが、日本でもエビが獲れていたとは。
1970年代、まだ肉料理や海老フライが「ハレの日」の食事だった頃はそのエビがどこから来たのか考えることもなく、そしていつの間にか物価高でも国産の大衆魚よりは安いエビになりました。
海老がいる遠浅の海、さぞかし美しい海だったことでしょう。
そして新田開発が行われていた頃も。
八幡製鉄所が洞海湾に面して立地したことで、洞海湾沿岸を埋め立て、工場を建設し、北九州の工業化が加速していった。また、対岸の若松も筑豊炭田の積出港として発展し、湾内は多くの船が行き交っていた。洞海湾の沿岸に重化学工業が立地した結果、湾内に工場から有害物質を含んだ廃水が流入し始め、公害を引き起こしていった。当時は公害対策基本法など環境保護の法律が未整備であったため、工場廃水に対する規制は無く、シアニド・カドミウム・ヒ素・水銀などの有害物質が海中に排出され続けた結果、1942年には水質汚染のために漁獲量がゼロに転落した。
さらに、1960年代の高度経済成長期には、激しく汚染された状況に対し「死の海」と呼ばれた。この1960年代の洞海湾は、船舶のスクリューが溶け、魚介類はおろか大腸菌すら生息できない程に汚染されていた。1970年6月には経済企画庁が湾内の水質調査を実施、湾の奥部でヒ素、カドミウムの濃度が水産用水基準をはるかに上回る値になっていることが明らかにされている。
明治以降の「強い国」を目指していた流れは、1942年(昭和17)にはすでに魚も住めない海をつくってしまっていたようです。
水質改善の取り組み
1966年に福岡県と北九州市は、公共用水域の水質の保全に関する法律および工場排水等の規制に関する法律に基づき、国に要請し、1974年1月14日から、その時点で約480万㎡も海底に溜堆積していた汚泥(ヘドロ)の浚渫を開始した。これを皮切りに、工場廃水に規制を順守させて浄化処理を徹底させたり、さらなるヘドロの処理などの水質浄化の対策を幾つも行っていった。また、北九州市の下水道の普及を進めて生活排水の処理を徹底していった。この結果、洞海湾の水質は改善され、再び海生生物が湾内にも戻ってきた。
さらに、そこに生息する生物によって水質を浄化する能力が高いとされる、干潟を人工的に作り出す実験も実施中である。
子どもの頃の、工業国になっていくことが誇らしいことと習うのに対して、毎日テレビでは各地の公害がニュースになっていたことを思い出します。
工場や車の排気ガスで空はよどみ、川や海は悲惨なほど汚れていました。
同じ頃、川をきれいにしよう、海をきれいにしようという各地の努力があったことを知ったのは成人してからでした。
目の前に広がる洞海湾はそばに工業地帯があるのに、静かで美しい海に感じました。
ヘドロの海だった駿河湾が生き返って漁業が再び盛んになり、深海魚を観にたくさんの人が集まるようになったように、洞海湾も息を吹き返したのでしょうか。
ただ、海面付近の海水の状態は改善しても、洞海湾の海底には、ダイオキシン類の環境基準を超過する底質汚染が見られるとの旨を、2007年に行政が公開した。
まだ、問題は続いているようです。「閉鎖性の高い水域」の歴史はどんな感じだったのでしょう。
それでもこんなことも書かれていました。
響灘にはスナメリが生息している他、関門海峡には2020年頃からハンドウイルカまたはミナミハンドウイルカの群れが定着しており、洞海湾の周辺でも度々確認されている。
どなたかが観察し、記録してくださっているようです。
便利さや快適さに感謝するとともに、その引き換えに、自分が生きている間に水や土地を汚し、大昔からあった豊かなものを犠牲にしながら生きてきたのだ、私が生きてきた時代はなんと傲慢な時代だったのだろうという葛藤に何度も揺れてきました。
死ぬまでには少しでも何かお返しができるだろうか。
そんな驚異的に変化する時代であるがゆえの葛藤だと思うこの頃です。
ただ、これからも形を変えて、この人間の「成長と発展」「新しいものの発見と開拓」あるいは「便利な生活への欲望」のような希求と葛藤が続くのでしょう。
どこに行き着くのだろう、終わりはあるのだろうか。
それを考え出すとあの宇宙の果てを考えるようにめまいがしてくるのでやめておきましょうか。
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