先日、オランダのアムステルダム中央駅についての番組があって、見入ってしまいました。
驚いたのはすぐ駅前が大きな運河で、その対岸を結ぶ渡船が現役だということでした。
Macのマップを地球儀にしてぐるりと回し、アムステルダムを拡大してみました。
残念ながら地名のほとんどが現地語なので正確な名前がわからないのですが、東側の湾と西側の北海を結ぶ運河に何ヶ所も渡船のルートが表示されています。
日本だったらとっくに大きな橋が造られて、自動車に置き換えられていそうです。
渡船からはたくさんの乗客が自転車で降りてきて、そのままさっそうと街へと向かっていました。
羨ましいなあ。
きっと一世紀半前に、デ・レーケやムルデルあるいはエッシャーも同じ風景を見ていたのではないかと思うアムステルダムの運河周辺の風景でした。
*いよいよ若戸渡船へ*
8月下旬から寄り道しながら長々と書いている5月初旬に訪ねた筑後川から遠賀川の散歩の記録も、いよいよ最終日です。
週末の朝はテレビショッピングの番組ばかりで、ようやくニュースになると「社長の暴行」「投資詐欺被害1000件超え」といったどんよりするニュースばかり。党名は違っても根っこは同じの政治家でい続けたい人たちの簡単にお金や権力を手にいれることが至上命題の「政治経済」に翻弄されている生活、ですからね。
気を取り直してカーテンをあけると、ホテルの窓からは真っ青な洞海湾と真っ青な空が美しく、風もなさそうです。
5時すぎには洞海湾から響湾へ向かう船舶が通行しているのが見えました。6時台になると週末だというのに、航行する船の数が増えています。
真面目に働いて生活することが軽んじられ続けることがありませんように、と思いました。
さあ、いよいよ最終日の最初の目的、渡船に乗ります。
若松は洞海湾を隔てて小倉の対岸にありますから、JR若松線で折尾駅で乗り換えてぐるりと洞海湾を迂回するしかないのだろうと思っていました。
何度か地図を見ているうちに、若松と対岸の戸畑を結ぶ薄い水色の線を見つけました。渡船です。これは是非乗ることにしましょう。
休日でも1時間に4本も往復しています。
戸畑からこちらへ向かう船が近づいてきました。100円で乗船券を購入し、乗り込みました。
船が岸壁を離れると、真っ赤な若戸大橋が頭上に大きく見えて、宿泊した若松の落ち着いた街が遠ざかるにつれて、沿岸の工場が見えてきました。
海、年々足がすくむ、北湊
海岸が工業地帯になった
とメモをしていたら、あっという間に対岸の戸畑渡場に到着しました。所要時間3分の、念願の渡船の散歩が終了。
今度は戸畑側から若松へも乗ってみたいなあと、すでにやり残した宿題ができてしまいました。
ただ、40代に入る頃までは東南アジアの漁師さんの舟で海に出ることが好きだったのですが、最近は海を見ると大きな橋を渡るときのように怖さで足がすくむようになりました。
*若戸渡船の歴史*
若戸渡船についてWikipediaにまとめがありました。
北九州市が運営するまでの変遷が書かれていました。
北九州市若松区本町1丁目の若松渡場と戸畑区北鳥旗町の戸畑渡場を旅客船で結んでいる。北九州市により運営されており、「ボンボン船」の愛称で呼ぶ市民もいる。
明治以前から若松の地主による運行が行われていたが、1889年(明治22年)頃より若松村による運航となった。1919年(大正8年)4月からは若松市と戸畑町の共同運航も実施された。1930年(昭和5年)4月2日若戸渡船沈没事故(乗客179名中72名が死亡)が発生。1936年(昭和11年)以降は若松市と戸畑市の市営となり、以降は(戦後に一部事務組合による運営になったこともあるが)一貫して自治体による運航がなされている。管理は北九州市産業経済局渡船事業所により行われており、若松区内を中心にバス路線を持つ北九州市交通局は運営に関与していない。バスと渡船の乗継割引制度はなく、「nimoca」の利用も不可。
1930年の事故では「乗客179名中72名が死亡」とあるので、現在の船とは違いかなり大きい船だったのでしょうか。
日曜日の朝だったためか、私が乗った時は数人程度でしたが、ふだんは利用者が多いようです。
現在も通勤通学時間帯は多くの人が利用している。また、航行中に大型船をかわしたり通行するのを待ったりして到着までに時間がかかることもある。特に若松桟橋において潮の流れが強く着桟出来ない場合には、一時的に欠航になることがある。
「3分であっという間に到着」と思ったのですが、風だけでなく潮の流れや航行する他船とを調整しながらだとは、渡船について知らないことばかりでした。
そうそう「渡場」も最初読めず、検索して「わたしば」だと確認しました。
身近にない生活ですからね。
*市民の強い要望により存続*
見上げるようなかなり高い場所を通る若宮大橋が架かっていますが、それによって存続の危機もあったようです。
1962年(昭和37年)に若戸大橋が開通する前は、若松地区と戸畑地区を直接結ぶ唯一の交通手段であった。同橋の開通により貨物線が廃止された。旅客船も廃止する計画となっていたが、市民の強い要望により存続した。現在でも通勤や通学など、若松地区と戸畑地区を結ぶ交通として使われている。また、若戸大橋の歩道が廃止されため、自家用車を利用しない場合に洞海湾を渡る際のルートの一つとなっている。
あの高さの橋を歩いて渡っていた時代もあったのですね。たとえ頑丈な柵で防護されていても足がすくんで歩きたくないですね。
若松大橋と渡船の歴史はちょうど私の生まれた頃からの時代に重なるのですが、川を安全に渡れるようになるための橋の建設や誰もが自動車を手に入れられるようになるという驚異的に変化する時代の、交通権との葛藤とも言えそうです。
なぜ渡船に惹かれるのか、少し見えてきたような気がしました。
「渡船」について書いた記事が増えてきたのでまとめておくことにします。
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「生活のあれこれ」まとめはこちら。