若松渡場の周囲にも、かつて海運業で栄えた頃の建物などが保存されて案内板もわかりやすく、当時の雰囲気が感じられる街です。
渡船の待合室だったと思うのですが、「土木遺産 若松築港関連施設群」というパンフレットがありもらってきました。「弁財天上陸場」「若松南海岸物揚場」「出入船舶見張り所跡」「測量基準点」「東海岸通護岸」「東海岸係船護岸」の6つが、明治から昭和初期にわたり整備されたものとして保存されているようです。
パンフレットを見ていたら、せめて半日ぐらい歩けばよかったと、若松を去るのが惜しくなってきました。
そして待合室に、この地域の歴史がまとめられていました。
*洞海湾の歴史*
洞海湾の歴史
つくしなる大渡川(おおわたりがわ)大方は我一人のみ渡る浮世か
「土佐日記」で知られる紀貫之の和歌に読まれた大渡川とは、洞海湾のこと。
さらに古くは、神功天皇が熊襲平定の際に江川経由で遠賀川河口へと向かったと伝えられています。文永の役(1592年)には豊臣秀吉の軍船もまた響湾の強い波風を避け、同様のルートを航行するなど、洞海湾は、歴史上の人物とも縁の深い場所です。
江戸時代には農地として干拓が進み、明治以降は、官営八幡製鐵所のはじまりとともに石炭の積出ルートとして大きく発展しました。最盛期の昭和30年代前半には、1日200雙もの船が出入りしていました(*)。
水深の浅い洞海湾は航路の拡張のため浚渫が行われ、一方で、企業立地のための埋め立ても進み、現在の形になりました。
(強調は引用者による)
(*北九州市の説明では「1日2,100雙」)
洞海湾にあった島「河○(白へんに斗)島(かばしま)」
洞海湾には戦前まで「河○島(別名:中の島)」と呼ばれる島がありました。現在の若戸大橋のちょうど下あたりに位置します。江戸時代初期には福岡藩主・黒田長政により若松城が築かれ、明治期にはコークス工場や造船所もあり、島民も暮らしていました。
しかし、若松の繁栄で船の通行量が増える中、1940(昭和15)年、島は航路の安全確保のため、削り取られ、姿を消しました。現在、戸畑図書館(旧戸畑区役所)前に削り取られた島の一部が記念石として残されています。
(強調は引用者による)
黒田長政によって造られた堀川によって、遠賀川の水がこの辺りの干拓地に引かれたようです。
現在のJR若松線沿線の海岸線に広がる平地が干拓地だったのでしょうか。海に面しているので、土から塩分を除くのは大変そうですね。
中の島はどこだろうと思っていたのですが、この説明を読み返してわかりました。
あの若戸大橋の橋脚の土台になっていたようです。
渡船の待合所にあった説明で、宿題の答えがわかりました。
*渡船の年表*
「若戸渡船のあゆみ」という年表もありました。
1868(明治元)年以前
渡船は、明治維新(1868(明治元)年〜)以前から運行されており「大渡(おおわたり)川渡船」と呼ばれていた。小さな伝馬船で人や荷物、郵便を運ぶ程度であった。
この頃は、渡船経営を若松側と戸畑側で別々に行っていた。
若松側は地主である山本喜七郎氏の一族が代々渡船経営に当たり、戸畑側は戸畑浦地区民が輪番制で経営していた。
1889(明治22)年頃
渡船経営が若松側では山本喜七郎氏から若松村に移される。
戸畑側では村制が敷かれたのを機に戸畑村に移される。
1891(明治24)年
町制施行により若松村が若松町となる。
1899(明治32)年
町制施行により戸畑村が戸畑町となる。
1901(明治34)年
1904(明治37)年
両町とも渡船事業を個人名義から町長名義とした。
1911(明治44)年
「第一河○(白に斗)(かわと)丸」就航。日本で初めて汽船による渡船運航を開始した。
「第一河○(白に斗)丸」の竣工とともに、船舶の建造費や月々の経費を両町で分担することになり、両町による共同事業のきっかけとなった。これが「若戸渡船」の始まりである。
1914(大正3)年
1919(大正8)年
渡船経営が若松市と戸畑町の共同経営となり、「大渡川渡船」の名称は「若戸共同渡船」に改められる。
1924(大正13)年
市制施行により戸畑町が戸畑市となる。
1934(昭和9)年
貨物渡船「第八わかと丸」「第九わかと丸」の運行を開始する。
これは自動車をそのまま船に乗り入れて航送することができ、日本初のカーフェリーである。
1937(昭和12)年
1940(昭和15)年
洞海湾内、八幡製鐵所への船舶の出入りが多くなったこと等もあり、現在の若戸大橋下付近に位置していた「河○(白に斗)島(かばしま)」が切り取られた。
1946(昭和22)年
両市による一部事務組合「若戸共同渡船組合」による運営が始まる。
1962(昭和37)年
9月26日に若戸大橋が開通したことに伴い、貨物渡船が廃止される。客船部門も若戸大橋開通と同時に廃止の予定であったが、利用者の強い要望により存続が決まった。
1963(昭和38)年
2月10日に、五市合併による北九州市が誕生した。「若戸渡船事業所」による運営が始まり、年間1061万人が渡船を利用した。
1965(昭和40)年
「若戸渡船事業所」は、小倉航路事業(小倉〜馬島・藍島航路)も所管することになり、「渡船事業所」と名称を変え現在に至っている。
1972(昭和47)年
2月1日、若戸大橋が無料化される。
1986(昭和61)年
くきのうみ花火大会が始まる。
1987(昭和62)年
5月3日、若戸大橋の四車線化工事に伴い、歩道が廃止される。
1990(平成2)年
3月31日、若戸大橋が四車線として供用開始される。
2012(平成24)年
9月15日、若戸トンネルが開通する。
2018(平成30)年
12月27日、戸畑渡場で新しい浮桟橋が供用開始される。
旧浮桟橋の一部は開始後100年以上が経過していた。
2022(令和4)年
若戸大橋開通後60年。
「若戸渡船」の始まりから4億人が渡船を利用した。
(以上、強調は原文のまま)
いやあ、圧巻の年表ですね。
そして渡船の歴史は交通権や、それを多くの人が利用できるような協同組合やみんなが共に豊かになる公共性の歴史にも重なりますね。
地図で見つけた細い水色の航路線の歴史が、生き生きと目に浮かぶようです。
*おまけ*
若松をふらりと歩いている20代ぐらいの方達がけっこういらっしゃいました。
あちこちにある土木遺産の案内板を読んでいました。
私が20代の頃にはこうした歴史の説明には関心もなかったのですが、そうか、こういう方々の中から将来、先人の表現が生まれるのだと思いました。
渡船の待合室にある説明とか、街中の案内とか、あるいは国交相や農林水産省の記録とか、本当に市井の人の正確な記憶や記録によって成り立っている社会ですね。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
渡船のまとめはこちら。
「城と水」のまとめはこちら。