生活のあれこれ 72 「瀟洒な住宅地」

馬事公苑周辺の散歩を書き始めたのに、早速、寄り道をしてしまったので戻りましょう。

 

東急世田谷線に乗るために、6月初旬、下高井戸駅へ向かいました。

ここは玉川上水が通り、古くからの寺町と甲州街道沿いの街路樹がある大好きな場所の一つです。甲州街道沿いはすっかりマンションなどが立ち並ぶ都市の風景ですが、まだところどころ半世紀前を思い出させるような古い木造の商店や家が残っています。

20代の頃は、都会っぽいマンションの方に憧れたのですが、今はすっかり気持ちが変わりました。

 

高井戸駅前は京王線高架化に伴う再開発で、あの古い商店街がなくなり空き地になっています。下北沢もそうですが、失うとなるとたまらなく寂しくなるのですから人の気持ちは勝手ですね。

そんなことを考えていたら、京王線が立て続けに通過するので踏切が開かずの間状態になり、世田谷線が行ってしまいました。

 

再開発でこの開かずの間が解消されるのは喜ばしいけれど、ごっそりと風景が変わってしまうのは今も慣れないものです。アムステルダム駅前のように100年以上風景が大きく変わらない社会との違いはなんでしょうか。

 

 

宮の坂から舌状台地へ*

 

路面電車のような世田谷線1980年代に乗った頃は古臭く感じたのに、最近ではおしゃれだし、とても良い公共交通機関だと思うようになったのですから、これもまた人の気持ちなんて勝手ですね。

 

車窓から家が近く、なんだか落ち着きます。立葵と紫陽花が咲いているのが見えました。

ほどよい速度も、街の中ではいいですね。

 

宮の坂駅で下車しました。駅のすぐそばに世田谷八幡宮の鬱蒼とした鎮守の森があり、線路の反対側も豪徳寺の大ききな敷地があります。

駅におしゃれな世田谷線沿線の案内図がありました。たくさんの古刹史跡が描かれています。

そうでした、20代の頃は世田谷線沿線なんて何もないと思っていました。

 

宮の坂駅の南50mほどのところに烏山川緑道があります。

わずかな高低差のように見えるのですが、世田谷八幡宮豪徳寺はこの烏山川の左岸に位置していているのでした。

現在だと、どうしても「線路の反対側」という感覚で位置関係を覚えるのですが、川でとらえなおすとまた違って見えてきますね。

 

緑道に入りました。蛇行した流れをできるだけとどめるように整備しているのでしょうか。

住宅地の間の紫陽花が美しい暗渠の道をしばらく歩くと、都道427号線に出ました。その先にまだ烏山川緑道は続いていて「万葉の小径」と表示がありました。

 

*桜木遺跡*

 

馬事公苑へは烏山緑道から離れて、南西へと歩きます。

都道の先はトンネルになっていて、その上に桜木中学校と勝光院の森が見えました。

階段を登って中学校のそばの道へ出ると、その先におしゃれなマンションがあります。

なんと警視庁の官舎でした。

 

いつの間にか「団地の官舎」の風景から、「ゆったりとした団地のような敷地のおしゃれなマンションが官舎」の風景の時代になったのですね。

うらやましいなあ。年金者ハイムもこんな感じで整備してくれればよかったのに。

 

 

怪しい人に思われないように、でも地形や風景を確認したいしと逡巡していると、校庭のそばに案内板がありました。

桜木遺跡

 桜木遺跡は、桜木中学校敷地を含む桜一丁目に所在し、北側を流れる烏山川と、南側を流れる小河川(細谷戸川)に挟まれた舌状台地上に位置する。遺跡の範囲は東西約四百メートル、南北二百二十メートルで、面積は約八万平方メートルと推定される。

 本遺跡は、烏山川流域における縄文時代の遺跡の中で最大規模であり、長期間にわたって継続して集落が営まれていることから流域における縄文時代の中心集落があったと考えられる。また、広場を中心にドーナツ状に広がる、縄文時代中期(約五千三百年〜四千五百年前)の環状集落の典型例である。

 平成十七〜十八年に行われた第一次発掘調査においては、住居址(じゅうきょし)三百七十二軒をはじめ、多数の遺構及び遺物が確認されるなど、大きな成果があった。

 この調査において出土した縄文土器、石器などは、当時の人々の生活とその変化を解明していく上で重要であることから、平成二十一年に区指定有形文化財(考古資料)に指定されている。

  令和七年二月       世田谷区教育委員会

 

まだまだあちこちに畑が残っていた1990年代から「高級住宅地化」が進み、その頃に発掘調査が行われたのでしょう。

 

世田谷は玉川上水からの分水を得てもなお水不足に悩まされた地域で、ほんのつい最近まで関東の典型的な畑作地域の様相だったようです。

 

かつて水を得るために貴重だった二つの小さな川も暗渠になり、かつての川のそばまでぎっしりと家が立ち並ぶ風景になりました。

 

畑地の多い世田谷の記憶がある私がこの驚異的な変化に驚くのですから、縄文時代の372軒の人たちが見たらびっくりですね、きっと。

 

ほんの四半世紀前は都内でもまだ森や畑がけっこう残っていたのに、高額なローンを抱えないと、あるいは高額な家賃を払わないと住めなくなったのは、まるで社会全体に「瀟洒な住宅地」という魔法にかけられたかのような、そんな時代ですね。

 

宮の「坂」から下り、かつての小さな川ぞいを歩き、舌状台地の上までわずか数百mでしたが、縄文時代からの「どこに住むか」の生活の年表が頭の中をぐるぐるとまわっていきました。

 

 

 

 

 

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