行間を読む 247 馬事公苑周辺の歴史

1970年代ごろ、馬事公苑があるのは知っていたのですが歴史はまったく知りませんでした。246号線沿いや環状八号線沿いの開発が進み出していた世田谷で広い馬場があるのは、その当時も近くに自衛隊があったので、おそらく元々は軍用地だったのだろうと思っていました。

 

*戦争と競馬*

 

Wikipediaの「馬事公苑」の年表を見ると、最初から競馬用の施設として1934年(昭和9年)に購入されたものだったようです。

1934年(昭和9年):帝国競馬協会(日本競馬会の前身)が東京市世田谷区用賀(現在の世田谷区上用賀)の土地約5万坪の土地を30万円で購入。

1940年(昭和15年):開苑。

1942年(昭和17年):用賀に住んでいた第40代内閣総理大臣東条英機が、馬に乗って来苑して視察。

1944年(昭和19年):「修練場」と改称。

1948年(昭和23年):国営競馬の開始に伴い「農林畜産局競馬部東京競馬事務所」に改称。

1950年(昭和25年):第1回長期騎手講習(競馬学校騎手課程の前身)開始。

1953年(昭和28年):馬事公苑近くの陸軍衛生材料廠跡地に在日米軍倉庫(SEYAGAYA WAREHOUSE)が建設された。

1954年(昭和29年)9月16日:日本中央競馬会の設立により同会の管轄下に置かれ、再び「馬事公苑」の名になる。

1964年(昭和39年):東京オリンピック馬術競技開催。

 

9年前に横浜市根岸の馬の博物館を訪ねたときに、「昭和10年になると軍事色の濃い世相の中で、横浜をはじめ本競馬会の各競技場は入場者数、売り上げとともに上昇の一途をたどった」という説明に、それまでの「戦時中の暮らし」のイメージと違う面があることに驚いたのでした。

 

馬事公苑も、戦時中に整備されたのは軍用馬やその訓練のためだろうと想像していたのですが、戦時中も一貫して競馬協会の所有だったのでしょうか。

Wikipediaの「概要」とつながりました。

馬事公苑は、1940年東京オリンピックに向けて日本の馬術選手を育成する目的で開設された。同大会は日中戦争の影響で中止となったが、第二次世界大戦後の1964年東京オリンピック2020年東京オリンピックでは馬場馬術競技の会場となった。

 

そうそう、この散歩は6月初旬の備蓄米放出だとか米騒動の真っ最中で、帰宅したら偶然にも時の農林水産大臣が競馬の表彰式に出たニュースが流れました。

それで競馬が農林水産省の管轄だと初めて知りました。

いろいろな歴史がありますね。

 

*もともとは何があった場所なのだろう*

 

Wikipediaの1989年の「馬事公苑周辺の空中写真」を見ると、敷地内のあの「武蔵野自然林」もあり、その周辺にはまだ畑地が残っているのが見えます。

1990年代でも環八沿いにも畑が残り、世田谷区内にはあちこちに野菜の無人販売所がありました。

その後急激に宅地化され、戸建てやマンションがぎっしりと立ち並ぶ風景になりました。

 

その空中写真では馬事公苑の西側は整然と区画整理された住宅地で、現在の地図でもその周囲は高低差が多い複雑な道が入り組んだ地形なのに、その一角だけ整然としています。

1960年代にオリンピックを見据えて宅地用に整地したのだろうか、それとももともと平地だったのでしょうか。

それとも代々木公園とか根岸のように、米軍関連で開発されたのでしょうか。

 

 

玉川村の「玉川全円耕地整理事業」*

 

馬事公苑周辺の歴史が気になって検索していたら、「世田谷散策記」という先人の記録でこの地形の理由がわかりました。

 

 馬事公苑は世田谷通りの農大付近、農大と道を挟むような感じで用賀側にあります。この付近は世田谷通りを挟んで行政区分が玉川地区と世田谷地区とに分かれていて、実際に街並みもかなり異なっています。

 道が狭くてごちゃごちゃしている事から配達員泣かせと言われる世田谷ですが、馬事公苑側の玉川地域や区画がきれいに整備されていて、比較的道幅も広く、配達の人にとって楽ちん仕様になっています。

ほんと、世田谷線宮の坂駅から馬事公苑までGPSがないと歩けないほどでした。

 

 これは昭和の初めに玉川村豊田村長が推し進めた玉川全円耕地整理事業という大事業のたまもので(N0.97玉川神社の項を参照)、ここから田園調布の辺りまできれいに整備された区画がずっと続いています。馬事公苑があるのはその一番北の端という事になります。

 特に馬事公苑のある用賀地区は、玉川全円耕地整理の象徴と言われるほどきれいに区画が碁盤目状に整備されています。道幅も広く、駅から世田谷通りの間までに用賀一条通りから用賀十条通りまでと10筋の通りが設けられています。その様子はまるで京都・・・というのは大袈裟ですが、とても住みやすくなっています。

 その用賀の区画、用賀中町通りの東、そして用賀七条通りから北側の上用賀二丁目の大部分が馬事公苑の敷地となっています。結構な広さです。

 実はこの広大な敷地は、玉川全円耕地整理事業と深く関わっています。この事業は玉川村をあげての大事業でありながら、都や国の援助を受けていませんでした。それに田園調布や成城などと違って企業が整地して売る出す(*原文のまま)といった類のものでもなかったので、資金繰りに困っていました

 あーじゃ、こーじゃともめているとき、帝国競馬協会が広大な敷地を要する馬事公苑を建設するための土地を探していて、用賀地区のこの土地(5万坪)を30万円で購入しました。

 それが昭和9年の事で、その資金を使い用賀地区の区画整備は順調に進み、他の地域よりも早い昭和13〜14年頃に完成しました。

 この時期になぜ馬事公苑が必要だったのか。それは当時、日本に総合的な馬事施設がなく、関係者の間で人材の育成や馬事競技が行える施設の建設が望まれていたからです。

 そして昭和8年12月23日に御誕生になった皇太子殿下(平成天皇)の奉祝記念行事として一大馬事施設の建設計画を立て、翌年に決議されました。当時はまだ軍隊で馬の需要が多くあった時代であり、軍事、特に富国強兵に直結する事はスムーズに決議されていた時代でした。

(「せたがや百景No.85 馬事公苑界わい」の「JRA馬事公苑の歴史」より)(強調は引用者による)

 

なんと、玉川村が自力で畑地の区画整理を行おうということが先だったのですね。

 

 

これまでも世田谷は玉川上水の分水路や野川や仙川、あるいは国分寺崖線の湧水などを訪ねてだいぶ歩きました。

地図を眺めていると、面白いほど蛇行した道があり、国分寺崖線ハケの上と下の境界線や舌状台地の高低差があるので、いくらでも散歩の計画ができました。

ところが用賀周辺はまっすぐな道が多いので「新興住宅地」だろうと、歩くのは後回しにしていました。

 

いやあ、ほんとつまらない場所なんてないですね。

「玉川全円耕地整理事業」の痕跡を歩いてみたい、新たな宿題ができました。

 

 

*おまけ*

なんだかまたすごい先人の記録に出会いましたが、どんな人なのだろうと思ったら「はじめに」にこんなことが書かれていました。

旅や移動をするのが好きなのはもちろん、普段から地図を見てあれこれと考えたり、旅を終えた後に写真を整理するのも好きで、1999年にこのサイトを作り始めました。

(強調は引用者による)

 

 

 

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