ほんの数年前までは私の人生で古墳は無縁の世界でした。
古墳というと天皇や豪族のお墓という認識で、発掘されるものを見てもなんだかおどろおどろしく感じるだけで、ましてやそのそばで生活している地域があるなんて想像もしていませんでした。
ところが奈良を訪ねるようになり、家や田畑のそばまで大昔の皇族の古墳が迫ってくる地域でふつうに生活が続いていることがとても不思議でした。
しかもその周濠の水を田畑で利用しています。
いつの間にかあちこちの古墳にも目がいくようになりましたが、それはいにしえの人たちの生活が身近に感じるおもしろさかもしれませんね。
勝手神社へ着いた頃から雷が遠ざかったので、また古墳を訪ね歩くことにしましょう。
ただまだ雷雲がなくなったわけではないので、高田川沿いに山側の周濠を訪ねて法隆寺方面へ行く計画はやめて、この近くの古墳を歩くことにしました。頭の中の計画はいくつもありますからね。
*コンピラ山古墳*
県道51号線は交通量も多いのですが、隣接している勝手神社と溜池(神楽池)は静寂な空間でした。また県道へ戻ると、現代へいきなり引き戻されたような変な感覚です。
神楽池には水色の水門があり、地図にはないのですが水路が高田川へと続いていました。
高田川を渡って左岸へ入り、近鉄大阪線の踏切を渡ると線路沿いに田植え直後の田んぼがありました。
水路を渡るとその先に森が見えてきました。コンピラ山古墳です。
古墳名にはこういうカタカナ名が時々あるのもおもしろいですね。
どこから近づけるだろうと歩いていると、コンピラ山古墳を取り巻くように住宅が建っていて、その間に細い路地があるので入ってみました。
家の裏手がすぐに古墳なのですが、いつ頃から住んでいるのでしょう。
Wikipediaによると5世紀前半頃に築造されたようで、気が遠くなりますね。
雷鳴はいったん遠のいたものの、真っ黒な積乱雲が灰色の雲になり、雨がポツポツと降ってきました。先を急ぎましょう。
*磐園陵墓参考地(築山古墳)*
コンピラ山古墳の北側は奈良らしい家と新しい家が混在する住宅地で、その細い路地を曲がりながら緩やかに西へ向かうと、目の前がひらけて周濠と古墳が見えてきました。
端から端まで300mぐらいはありそうです。
隣接する築山児童公園は草むしていて、周濠とはさまれた道は人の気配が全くなくなったかのようです。
周濠の途中で、古墳へと入る門があり宮内庁管理であることが表示されていました。
地図では「磐園(いわぞの)陵墓参考地」ですが、Wikipediaでは築山古墳として説明がありました。
ぐるりとまわる時間がなかったのですが、かつての周濠はもっと大きかったようで、さらに南側に残る栂池と2重濠だった可能性が書かれていました。
地図では南側には狐井塚古墳と茶臼山古墳が住宅地の中に残っています。
4世紀末に築造されたあと、城としても使用された可能性があるようです。
*築山古墳から築山駅へ*
周濠の北側のすぐそばにはまた住宅があり、公園との間の道を築山駅へ向かいました。
わずか100メートルほど歩いただけでまた喧騒の道路になり、古墳と周濠の世界から来たことが信じられない変わりようです。
築山駅のそばの右手が少し小高くなっていて工場のような建物がありました。
芭蕉かと思ったら、なんと小さなバナナがなっています。
それに気を取られていたら、ここは「インキ(インキョ)山古墳」だと案内板がありました。
「インキ山」はどんな意味から来たのでしょう。残念ながら当日撮った写真は不鮮明でわかりません。
Wikipediaの築山古墳の説明の中にもあって、「前方後円墳」だったそうです。
そして築山古墳周囲の航空写真を見ると、あの児童公園も「かん山古墳」があり、喧騒の道の先には「大谷古墳」があるようです。
古墳群を住宅地にしたような場所ですね。
古墳とともに暮らす、どんな感じなのでしょう。
Wikipediaには盗掘の記録も書かれていて、ついつい手を出してしまった人はその後どんな人生を送ったのでしょう。
そしてあの周濠の水は、生活の中でどのように利用されたのでしょう。
興味は尽きないですね。
「生活のあれこれ」まとめはこちら。
周濠のまとめはこちら。