落ち着いた街 98 龍田地区から法隆寺へ

斑鳩町役場前バス停に到着しました。3階建ぐらいでしょうか、灰色の屋根瓦と白壁の低層のお寺のような建物がこの街の雰囲気そのものの役場です。

国道25号線の交差点に、「奈良15km 天理14km 大和郡山9km」とありました。

 

ここから南東1.5kmほどのところにJR大和路線法隆寺駅があります。思い返せば5年前にその駅に降りた時には、「法隆寺が奈良盆地のこんな西の端っこにあったなんて」「そこから山と山の間を流れる川が大和川というのか」というぐらい、私の頭の中の奈良県内の地図が空白でした。

この時には大和川の支流がまとまる川合地区を訪ねたので、法隆寺には行かないままでした。

 

日本の政治の中心部であった奈良の寺社は立地が良いのだろうと思い込んでいたところ、いにしえより水に乏しいのであちこちに溜池や周濠があることを知り、法隆寺の北側にある溜池を2022年秋に訪ねました。この時は黄金色の稲穂が輝く田んぼに五重塔という美しい「法隆寺の裏側」からの空の風景でした。

 

時が止まったかのような風景に、法隆寺というのは田んぼに囲まれた場所にあったことが印象的だったとともに、大和川右岸の段丘の上であったことを知りました。

法隆寺の裏手の山に溜池が並び、その水路が大和川周辺の低地の田んぼを潤しているのですね。

法隆寺の西側の龍田地区にも溜池があり、古墳もあります。いつか歩いてみたいと思っていました。

 

 

*菅神社から戸垣山古墳へ*

 

山側の溜池を訪ねる前に、大和川へと下る段丘を歩いてみようと思いました。

神社と古墳をつなげて歩くことにしましょう。

バス停から南へと住宅地へ入ると、鎮守の森が見えてきました。目指す「雷神社」、とよく見ると「菅神社」でした。雷のことばかり考えていたので、どうやら地図を見間違ったようです。社殿に「丹後菅原神社」と掲げられていましたが、御由緒はわかりませんでした。

 

「当麻街道やすらぎの道」と表示のある緩やかな坂道をもう少し下ると、段丘の中段でしょうか、田植えの終わった田んぼが広がっていました。菅神社の東側から流れてきた水路が潤しているようです。

その水路は法隆寺の西側にある桜池からでしょうか。

 

田んぼから右手に入る角に、盛土のような場所があります。民家の敷地のようにも見えるのですが、マップと照らし合わせるとどうやらここが「戸垣山古墳」のようです。

検索すると「とし坊の大和古墳探索」という先人の記録がありました。詳細はまだわからないようですが、5世紀代らしいことが書かれていました。

 

この墳丘から右手に入って段丘を横切るように歩くと段々畑があり、盆地の底と山並みが見えました。眼下に広がる大和川の川合のような場所は、氾濫原だったのでしょうか。

新しい広い道へと出ました。南側をみると、段丘そのもののような段差が道にあるのが見えました。

先ほどの国道25号線に戻るには、けっこうな上り坂を戻る必要がありそうです。

反対側の歩道に小さな東屋がありました。きっと坂道をのぼる途中の休憩所ですね。

 

ここから段丘を斜めに北西へと横切る道を選びました。

畑と静かな住宅地の間の緩やかな坂道を歩くと、途中にまた山側からの水路があり、先ほどの田んぼの水路と合流し三代川へ流れて低地の田んぼを潤しているようです。

 

 

龍田神社から藤ノ木古墳へ*

 

緩やかな上り坂だと選んだ道でしたが勾配はきつく、段丘を下るときは写真を撮ったりメモをする余裕があったのですが、上りではほとんど歩いた記録がありません。

「行きは良い良い帰りは怖い」ですね。

 

龍田神社竜田川の水の神様だろうか、それとも別の神様だろうかと行く前にはあれこれ想像して楽しみにしていたのに、当日の記録が何もありません。

かろうじて、境内の西側から次の目的地に向かって歩き始めた記憶だけが残っています。

雷雲から守られてお天気はもったのですが、6月下旬の蒸し暑い32度に体力と気力がついていかなかったのでした。

検索すると、「五穀豊穣 豊作への謝儀」の神様でした。

 

せっかくここまで来たのだから、やはり目的の一つでも達成しようと境内を後にしました。

この先に守谷下池、中池、上池という3つの溜池があります。そこへ向かう道を見て気持ちが折れ、崖のような場所の下の道に変更しました。地図では簡単に行けそうだったのですけれど。

住宅地を緩やかに蛇行する道を抜けると、これから代掻きを待つ小さな田んぼと、角にはユリとグラジオラスが見事に咲いているのが見えて元気が出てきました。

 

そこから桜池を目指してまた上り坂へ入ると段々になった田植え直後の田んぼがあり、その向こうの斜面に建つ家が水鏡に映る美しい風景です。

けっこう新しい住宅が多いので、以前はもっと田んぼが広がっていたのでしょうか。

6月なのにコスモスもちらほら咲いています。

山の方に桜池の天堤が見えました。

 

東へと曲がると、新しい住宅地の行き止まりの道の先に緑色の草に覆われた古墳がありました。ほんと、古墳とともに暮らすというのはどんな感じなのでしょう。

住宅の間に見える緑の小高い山はちょっとシュールで、でも静謐な場所でしたが、Wikipedia「藤ノ木古墳」の「保存の歴史と問題」には現代に入って古墳が毀損された驚くような話が書かれていました。

「怖いのは人間」、いろいろな例がありますね。

 

*西里の街並みから法隆寺へ*

 

藤ノ木古墳のそばに説明板があるか、確認する気力もなくなってきました。

とにかくあと300mほどで法隆寺、そこまでたどり着かなければと先を急ぎました。

 

山沿いの道になり、その先に古い灰色の屋根瓦の家々と細い路地が見えます。

曲がり角に説明板がありました。

    歴史的町並み・西里

▪️まちの成立ち

 西里(にしさと)は法隆寺の西隣りにあり、東里とともに法隆寺を中心にできた集落です。もともと法隆寺を支える大工集団の本拠地であったといわれています。おおよそ300メートル四方の範囲に、その歴史を黙々と伝えるように、落ち着いたすまいをみせています。

 西里は、かつて近畿一円の大工支配となった、中井大和守正清(なかいやまとのかみまさきよ)の出身地といわれています。正清の父、孫太夫正吉は法隆寺大工の棟梁の筆頭格で、大阪城や京都方広寺大仏殿の作事に参加して伏見城をはじめ、江戸の町割や江戸城天守・本丸・法隆寺の大修理にも大工集団を率い、当世一流の大工として知られるとともに、五畿内と近江合わせて6カ国の大工棟梁を支配していました。

 当時まさに西里は匠(たくみ)の里だったのです。元和元年大阪夏の陣では、城攻めのおおはしご等の道具で大阪城を攻めたといいます。その結果として敵の豊臣から西里の生家が焼かれ、西里の集落も一緒に焼けたようです。

このため西里の集落には、それ以前の建物がないのかも知れません。

その後、正清は京都に移り住み、西里に残った大工たちは次第に庶民化していったものと見られます。

 

▪️西里の町並み

 美しく落ち着いた西里の町並み、そこには歴史が息づいています。

法隆寺の西大門の当たりから、一歩集落に足を踏み入れると、しっくいで塗りかためられた築地塀が、低く、長く続く町並みが目に入ってきます。

 通は3メートルばかりの細い幅ですが、歩くには、それがかえって安らぎを感じさせます。自然にできた町割であることから十字路はなく、T字型かL字型の辻となっていることも、行く手の景観に落ち着きを与えてくれます。

 この西里の町並みは、長い歴史を脈々と今に引き継がれたくらしの知恵であり、貴重な歴史の証人として大切にしていきたいものです。

                         斑鳩町

 

 

ああ、まさかここで「落ち着いたまちなみ」という文字にたどり着くことができるなんて。

私の下手な文章よりもこの説明板を読むと、町並みとその歴史が心に響いてくるようです。

 

細い路地はその先で少しだけ下がり、法隆寺の西大門が見えてきました。

 

法隆寺大和川右岸の険しい段丘の上の山のそばに立ち、美しい溜池と田んぼに囲まれ、東里と西里という落ち着いた町並みが今も続いているのだ。

地図を見て、ここまで思い浮かべることができるようになりました。

 

 

 

*おまけ*

「当麻街道」は「たいまかいどう」だとすぐに読むことができたのは、2023年春に吉野川分水西部幹線水路を訪ねるために当麻寺のそばを通ったからでした。

竜田神社前を起点として吉田寺(きちでんじ)を通り、神南(じんなん)三室山裾までの道をさします。この街道は達磨寺(王寺町)を経由し、当麻寺(葛城市)まで伸びているため当麻参りの道と呼ばれていました。斑鳩町内には往時のなごりを残す道標が数多く残っています。

(「当麻道:斑鳩の記憶データベース」より)

東側の山の辺の道のような道が山裾をつないでいたのでしょうか。道に歴史あり、ですね。

 

*おまけのおまけ*

龍野、竜野とたつののように「龍田」も「竜田」と両方の漢字が使われているが、これはどのような漢字に対する変遷なのだろうと気になっています。

 

 

 

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