朝から虚業のニュースばかりですが、地に足ついた現実の生活を見に出かけましょう。
延泊決定したので、天気予報に合わせて計画を変更しました。3日目は筒井駅から大和郡山の環濠集落と、奈良盆地の北の菖蒲池まで歩く計画でしたが、先に、予定になかった桜井周辺の溜池をつないで歩くことにしました。今日はお天気と気力次第でその後のことも考えることにしましょう。
桜井駅から西へ100mほどの八幡神社をまず訪ねてみました。
桜井駅はJRと近鉄線がそれぞれ高架橋で通っていて周囲はビルが多い印象ですが、歩いてみるとうだつのある家々が残っていたり落ち着いた街ですね。この「川合」地区も灰色の屋根瓦の奈良らしい住宅が多く、その中に美しいお社がありました。
高架橋を越えて南側へ入ると、栗原川とともに「川合」をつくる寺川の橋に来ました。橋のたもとに地蔵堂があり、そばに「竹内街道・横大路(大道) 難波から飛鳥へ日本最古の官道」と表示がありました。
日本最古の道「山の辺の道」とつながっているのでしょうか。「官道」初めて聞いたと思ったら、国分寺の「古代官道 東山道武蔵路」がありました。知識はなかなか身にならないものです。
川を渡ると、国道169号線が国道165号線につきあたるところから細い路地になり、小高い山へと上り坂になります。
「谷」地区で、古民家が学童保育に利用されていました。
先ほどまでは盆地の底のような平地だったのに、細い道を登っていくと街を見下ろすような風景になり、途中から蛇行した道に入ると林の中に緑色の溜池が見えました。
目指していたこも池です。
*石寸山口神社*
池のそばに神社がありました。こも池を訪ねるのが目的だったのですが、せっかくなので参拝してみましょう。
前日の雨で石段が滑りやすくなっています。
お社は奥がそのまま開放されたような造りで、あの三輪山のように山そのものが御神体なのでしょうか。
いつ頃の神社と溜池なのだろうと気になって石段を降りると、参道へ入る道に停められていた車の陰に御由緒がありました。
式内石寸山口神社
御祭神大山祇神
大山祇神は伊弉冉尊の生み給うた山の神にして磐余の大地を守護せらる山の神水の神として御祭祀になり上古より朝野の崇敬厚く中にも当社は大和の六山口神社の一社に数えられ延喜式内の大社にれっせられた
近世以来桜井木材業界繁栄の守護神としてその崇敬を高めている
桜井木材協同組合 奉賛会
なんと期せずして水の神様に出会いました。
古いお社と石段ですが、当日の写真を見直すと石段にゴミ一つなくはき清められていました。
車にはさまれるように御由緒の石碑を読んでいたら、どこからか出てこられた方が「車を退けましょうか」と声をかけてくださいました。
とんでもない、こちらこそ生活の場を歩かせていただいているのですからね。
お礼を伝え、御由緒の中に書かれていたとあることから次の目的地が決まり、歩き始めました。
*「石寸山口神社」の読み方から先人の記録へ*
実は当日はこの神社の読み方を知らないままでした。記録を書くにあたって検索したら、「いわれやまぐちじんじゃ」だと知り、さらに先人の記録から御由緒の行間を知ることができました。
石寸山口神社の概要
奈良県桜井市谷に鎮座する神社で、高田地区に鎮座する「山口神社」と共に式内社「石村山口神社」の論社となっています。
式内社「石村山口神社」は『延喜式』神名帳に大社に列せられ、古くは有力神社だったようです。
『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「〇〇山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、他の「〇〇山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと考えられます。
「〇〇山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「〇〇山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺えます。
『延期式』祝詞の祈念祭に飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝傍、耳無の各山口神社はその山の木材を伐り出し宮殿とした旨が記されており、「〇〇山口(坐)神社」は用材の産地として樹木を守護する神でもあったことが考えられます。
式内社「石村山口神社」についてはかつてイハレと呼ばれた桜井市中部〜橿原市東部付近の山を水源の地、また用材の産地としてその守護神たる山の神を祀ったものでしょう。
天平二年(730年)の『大倭国正税帳』にも記載があり、「石村山口 神戸稲801束 祖10田場云々」と記されています。
室町時代中期の文書『和州五郡神社神名帳大略註解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「石村山口神社」について次のように記しています。
・当時は「石寸水分神社」と称する。
・池上郷石寸山裂谷にあり、石寸川の上である。
・筆者が考案するに、石寸山口神社は水分御子守神で、「大和国八部水分社」の内である。
・また案ずるに、『大和国山川名所記』に曰く石寸山はあまた石村といい、ここに至ってこれを見たところ、石寸山は多武峰西に並び今中香山の南東にある。
・斉明天皇記に載るところの、天皇が水工に渠を穿ち香山の西より石上(イハカミ)山に通したとあるのはこれである。この石上山は山辺郡石上(イソノカミ)山と同字異訓である。
・また案ずるに、石寸山の谷水川は倉橋山(多武峰より続く西山)の流水川と落ち合い、城下郡を通って大和川へ流入する。件の大川(二水の合流するものを言い、つまり寺川である)を名付けで石寸川、または八釣川、或いはまた多武峰川という。
これによれば寺川(米川との説もある)をかつて石寸川と言い、この上流に式内社「石村山口神社」が鎮座し、また多武峰の西に石寸山があったとしていますが、いずれもその具体的な場所ははっきりしません。
当時は「石寸水分神社」と称したことから石寸川の水流と関わりが深く、水源の守護神、山からの水流を分配する神としての神格がより強まっていたことも窺えます。(以下略)
古代からの記録の多さ、そして川の名前などの記録の多さ、さらに現代へと先人の記録の多さに驚きます。
これが国造りの一つかもしれませんね。
*おまけ*
御由緒が刻まれた石碑を写真に収めたのですが、後で見ると「弉冉」の部分がよく見えませんでした。検索していたら同じ石碑を写した先人の記録のおかげで「伊弉冉尊」だとわかり、「いざなみのみこと」と読むことを知りました。いやはや、ほんと日本語は難しいですね。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。