次に訪ねる場所は、田んぼのT字路にお地蔵さんが立っているところから南側にある池之内地区です。
こんもりと小高い場所があるのが稚櫻神社のようです。
この小高い場所沿いに鎮守の森と住宅地の細い路地を入ると、神社への石段の参道がありました。森の中のようなので上るのはあきらめましたが、石段の下に説明がありました。
神社名「稚櫻(わかざくら)」の由緒
日本書紀によると「第十七代履中(りちゅう)天皇三年(西暦四〇二)冬十一月六日、天皇が両枝船(ふたまたふね)を磐余(いわれ)の市磯池(いちしのいけ)(神社の東側にあった池)に浮かべて、遊宴(あそ)ばれたとき膳臣(かしわてのおみ)余磯(あれし)が酒を奉った。その酒盃(さかずき)に櫻の花びらが散ってきた。
天皇は、大変不思議に思われ、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)をよんで、
「この花は季節外れに、珍しく散ってきた。どこからだろうか探してこい。」といわれた。
長真胆連は花を探したづねて、掖上室山(わきがみ、いけのへのむろやま)で花を手に入れて奉った。
天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。磐余稚櫻宮(いわれのわかざくらのみや)の由緒である。
長真胆連は本姓(もとのかばね)を改めて稚櫻部造(わかざくらべのみやつこ)とし膳臣余磯をなづけて稚櫻部臣(わかざくらべのおみ)という、」と記されている。
稚櫻神社の御祭神
○出雲色男命(いずもしこおのみこと)
「新撰姓氏録(しんせんしょうじろ区)によると物部氏の御先祖の饒速日命(にぎはやひのみこと)の三世(さんせ)の子孫が出雲色男命で、また、櫻の花を探し求めた物部長真胆連(稚櫻部造)の四代前の祖先にもあたります。
「旧時本記(くじほんき)」に「出雲色男命は第四代懿徳(いとく)天皇の御世(みよ)に大夫(まえつぎみ)となり、次に大臣(おおまえつぎみ、だいじん)となる。大臣(おおまえつぎみ)と言う号(な)は、この時からできた。」とあります。
○去来穂別命(いざほわけのみこと、履中天皇)
第十六代仁徳天皇の皇太子で「日本書紀」の履中天皇紀に「元年(四〇〇年)春二月一日皇太子(去来穂別命)は磐余稚櫻宮で即位された。」と記され池之内に都をつくられたことがわかります。
二年十一月磐余池(いわれのいけ)を作られた。
○気長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
神功皇后は第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で天皇がお崩(かく)れになったので、天皇にかわって政務をとられる摂政となられた。「日本書紀」神功皇后摂政紀に「三年春正月三日誉田別皇子(ほむだわけのみこ)(後の第十五代応神天皇・・・八幡大神)を立てて皇太子とされた。」
そして「磐余に都をつくられた」と記されている。
読み仮名がついているので助かりましたが、なんだかかないませんね。5世紀前後の「日本書紀」の世界が伝わってくる、静かな街です。
記されている天皇や皇后は、それぞれすでに周濠を訪ねました。その時代の雰囲気まではなかなか覚えられないのですが、こうしてその場所と繋がっていくると記憶に残りそうです。
池之内、かつてその東側に池があったらしいこともわかりました。現在は田んぼが広がっているあたりでしょうか。
*古代に築かれた巨大な人工の池*
美しい家並みが残る細い路地を西へと抜けると、また広い水田地帯が広がり、その先にまた少し小高い場所があります。
そしてまた、暑い中、郵便の配達の方とすれ違いました。
地図には「東池尻・池之内遺跡」とあったけれど、何の遺跡だろうと思いながら歩いていると、広大な草むらに案内板がありました。
東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)
古代に築かれた巨大な人工の池の跡です。戒外川の東岸から西方の御厨子神社が位置する丘陵にかけて、長さ約300m、幅約20〜55m、高さ約2~3mの土手状の「高まり」が存在しています。南に広がる谷を塞ぐ位置にある、この「高まり」が池の堤の跡です。古代には堤の南側に巨大な池が広がっていました。堤は丘陵の延長部分に盛土を施して築かれています。現在、堤の上は畑や宅地に、池の部分は水田となっています。
堤は6世紀後半には存在しており、堤の上では6世紀後半〜7世紀前半の建物や塀が多数発見されています。藤原京の時代(7世紀末〜8世紀初頭)には、堤の一角に水量調整用と考えられる深さ4m以上の大溝が掘られています。堤の外(北)側の裾付近にほは石敷が施されている地点もあります。池は12〜13世紀頃には埋没して耕作地になったようです。
この池は『日本書紀』や『万葉集』にたびたび登場する「磐余池」にあたるのではないかと考えられています。
なんと、先ほどの池之内の東側にあった池というのはこの磐余池の一部で、丘陵地帯の凹凸に水が湛えられた大きな池だったとは。
そしてこの案内板を読むのに歩いた道のあたりが、かつての堤だったとは。
南河内の地溝開発が7世紀ですから、それ以前にすでにこんな土木事業が行われていたのですね。
「日本書紀」というと遠い遠い昔の不正確な記録の印象だったのですが、池や水路の建設の歴史と重ねると違う世界がありそうです。
そしてその時代を伝える由緒や説明を読みながら現代も生活している場所があることに、ほんとかないませんね。
静かな集落にはかつての都があり、古代の巨大な溜池があった場所だったのでした。
これが奈良ですね。
*おまけ*
古代の巨大な人工の池の南側にあるのが香具山で、現在の戒外川(かいげがわ)は香具山の間をまっすぐこの東池尻を流れて米川に合流して耳成山の方へと流れている川です。
いつもの川についての先人の記録であるAGUAによると、この起点は「奈良県高市郡明日香村奥山・上垣内」とあります。地図でたどると、途中東へ大きく曲がり飛鳥資料館の前を流れて、県道15号の東大谷日女命神社のあたりが水源のようです。
どこかで「磐余」という文字を見た記憶があったのですが、この近くに「磐余の道」と記されていたのでした。
どんな道だったのでしょう。興味がつきませんね。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
周濠のまとめはこちら。