米のあれこれ 141 古代の幹線道路が田んぼの下に

美味しい昼食とコーヒーに元気が出て外へ出ると、灰色の大きな雨柱が近づいてきています。

四方の風景をさえぎるものがないので、雨柱が移動していくのを見るのはダイナミックですね。東南アジアで暮らしていた頃を思い出しました。

1980年代から90年代ごろの都内の「夕立」とも違い、あれは熱帯の雨の降り方だと思っていたのに、まさか日本でも見かけるようになるとは。

 

迫ってくる雨柱に気を取られて、そばを通ってみようと思っていた場所をすっかり忘れたのは痛恨のミスですが、どこかで雨宿りができるだろうかと思いながら佐保川を渡ると、団地が見えました。

最悪、団地の階段の軒下に避難させてもらおうと、時々雨柱を振り向きながら次の目的地に向かって歩いているうちに雲は北西にそれて行きました。

きっと、お天気の神様が私の散歩を守ってくれているに違いありません。

 

目指す場所が広大な田んぼの向こうに見えてきて、まっすぐな道も苦にならないくらい元気が出てきました。

 

 

*「下ツ道」*

 

田んぼの隅に大きな説明板がありました。

 

下ツ道  現在(いま)に続く古代の主要幹線道路

 

 下ツ道(しもつみち)は古代の奈良盆地内に設置された直線道路網のひとつです。これらの道は藤原京平城京などの都城ととも密接に関連する、古代の都市計画においても重要な施設でした。

特に下ツ道は、条里水田の基準になるなど、後世の土地開発にも大きな影響を与えました。

 下ツ道などの直線道路の詳細な設置時期については諸説があります。『日本書紀』の壬申の乱(672年)の記事にその名が見え、7世紀後半には設置されていたことがわかります、また、同じ記事には、ここ稗田付近の下ツ道沿いで戦況が切迫していたことも記されています。下ツ道は中ツ道、上ツ道と並ぶ3本の主要南北道路のひとつで、最も西に位置する道路です。総延長は25キロ以上。南端は見瀬丸山古墳(橿原市)付近、北端付近は平城京のメインストリートである朱雀大路に踏襲されています。

 

 下ツ道が幹線道路として最も重要視されていた古代の姿について、近年の発掘調査によって少しずつ実態が明らかになってきました。発掘では主に道路の両側に設けられた素掘りの側溝が検出されます。側溝の規模は幅1~10メートル、深さ0.2~2メートルで、場所によって異なります。ここ稗田や市内八条町付近では、東側溝の規模が大きいことが特徴的です。また、側溝の規模に関わらず、両側溝の中心間距離がどこも約2.3メートルで共通しており、計画的につくられたことがわかります。

 側溝から奈良〜平安時代の遺物が多く出土します。一般的な土器だけでなく、土馬や墨書人面土器といった祭祀に関わる遺物の大部分が9世紀には埋没していったことがわかります。

 

 道は平安時代以降も寺社参詣を中心に主要な交通路として機能したようですが、近世以降は中街道として整備され、一部は水田化し、「下ツ道」の呼称も失われてしまいます。しかしながら、下ツ道は設置以降現在まで1300年以上にわたって、道路として、あるいは土地区画として奈良盆地内の開発に影響を与え続けてきました。これほどの規模の直線交通網の整備を可能とした、古代の国家体制や技術水準には驚かされるばかりです。

 

さらに発掘に関しての説明が続きます。

道路の維持管理

 眼の前にある道路を拡幅する際の発掘調査では、敷葉(しきば)や敷粗朶(しきそだ)と言われる、枝葉を敷き詰めた地業(じぎょう)の痕跡を確認しました。奈良時代の下ツ道に伴う地業で、路面を安定させるために地盤が軟弱な部分だけに施工されています。今も地中に残るこれらの枝葉は、古代における官道の維持管理の実態を私たちに伝えてくれます。

稗田町の発掘調査

 昭和55年の調査で、古代の下つ道両側溝と道を横切る河川に架かる橋脚を発見しました。橋は複数回にわたり改修されています。周辺からは祭祀関連の遺物が大量に出土しました。河跡からは薦(こも)にくるまれた人骨も出土するなど、当時の社会を考える上で貴重な成果が得られました。

下ツ道の遺構

 大和郡山市内では、道路の両側溝が検出されて古代の下ツ道の実態がわかった調査例が多いです。

 道路の維持管理は水との戦いです。側溝内に水流を調整するための杭列を設けたり、崩れた法面を補強したり・・・。

 近年は西側溝の位置に複数条の溝が並列している例が相次いで検出されており、道路の変遷を考える上で大きな課題になっています。

 また、八条北遺跡では道路に沿って奈良時代の建物群が広がっていました。道路に関連した周辺の開発の様相についても関心が高まってきています。

 

 

現代の地図だと、東側の国道24号や西側の県道108号が南北に貫くように見えるのですが、その間の水田地帯の農道を拡幅したのかと思ったこの道が、まさかの古代の主要幹線道路だったとは。

そしてこの説明板の北側には稗田環濠集落の堀があり、そこからは細い道になっています。

ここに藤原京平城京を結ぶまっすぐな道があったとはとても想像が出きないですね。

 

奈良盆地の田んぼの下には、いろいろなものが埋まっているようです。

田んぼの脇に、専門的な説明があるのが奈良ですね。

 

そして、栄華を極めた「東の京」も、そのうちまた森林や田畑に戻っていくことを妄想したのでした。

きっと美しい湧水や川や、遠くの山並みや富士山まで見える美しい関東の姿に戻る。

そんな感じ。

 

 

 

 

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