下ツ道の大きな説明板の反対側には柵に囲まれた幅10メートルほどの堀があり、ゆったりと水が湛えられています。その中には灰色の瓦屋根の美しい集落が見え、さらにその北側を私を避けてくれた雨柱が移動しているのが見えました。
堀の端に水門があり、その近くに「下ツ道 大和郡山市 稗田町」と石標が立っています。
下ツ道はこの堀の西側の細い路地に続いているのでしょうか。
この堀に囲まれた場所が稗田環濠集落で、いつか訪ねてみたいと思っていました。
30年ぶりに訪ねた奈良で佐保川が大和川の支流であることを知り、東大寺の北西のあたりも歩いてみました。佐保川を地図で追っているうちに、ふとこの水色の線で囲まれた場所を見つけたのでした。
「稗田環濠集落」で検索すると、これまたたくさんの先人の記録がありますが、みなさん、どんな思いがあったのでしょう。
さて、集落の南東に神社があるのでそこを目指して歩き始めると、途中に案内板がありました。
古事記と環濠の里・稗田
稗田集落に鎮座する賣太神社は、平安時代から続く古社で、主祭神は稗田阿礼命、副祭神は天宇受賣命、猿田彦神です。
稗田阿礼は天武天皇の舎人で、この稗田町付近に居住していた猿女君一族の末裔であり、すぐれた記憶力で天皇の系譜や伝承を暗誦し、阿礼が読み習わした内容を太安万呂が記録にとり、西暦七一二年に日本最古の歴史文学書である古事記が誕生しました。
古事記の編纂に大きな役割をはたした阿礼を顕彰しようとする地元の活動は、明治期に始まり、今日まで受け継がれています。昭和五年から奈良県童話連盟により語り部の祖、お話の神様として顕彰され、阿礼祭が始まり、現在は神社の臨時祭として八十年にわたり続けられています。祭日の八月十六日には、稗田の舞や阿礼さま音頭が奉納され、童話会も行われています。
稗田は大和の環濠の典型例として有名です。詳しい形式過程は不明ですが、室町時代には現在のような形になったと考えられています。
環濠は東西二六〇m、南北二六〇mの規模で、北東側は七曲と呼ばれる特異な形をしています。西側と南側は特に幅が広くつくられ、一〇mもあります。環濠の内側には住居が密集し、東西南北に大きな道がとおり、そこからさらに細い道が延びています。道はT字型に交差したり、袋小路になっていて、遠くが見通せない防御に適した構造になっています。
環濠は整備されましたが、基本的な形は室町時代からほとんど変わらず、旧来の景観を残しながら現代生活の中に生き続けています。
平成二十二年 大和郡山市
堀のそばにあるので水の神様かと思ったのですが、想像とは違う歴史が書かれていました。
「基本的な形は室町時代からほとんど変わらず」生き続けてきこと自体がなんだか気が遠くなるすごさですが、1930(昭和5)年に阿礼を顕彰しようという活動はどのような社会の雰囲気の変化によるものなのでしょう。
と思いながら、鬱蒼とした鎮守の森へ入ると参道の脇に御由緒だけでない大きな説明書きがあり、そこに経緯が書かれていました。
阿礼祭
日本のアンデルセンと呼ばれた近代三大童話家久留島武彦氏の提唱により、稗田阿礼命を「日本のお話の神さま」として顕彰しようと、児童文学開拓者といわれた厳谷小波氏等とともに全国の童話家の賛助を得て創始され、奈良県童話連盟の主催により県知事・有識者多数の参列の中。昭和5年8月16日、第一回阿礼祭が三日間にわたり開催された。昭和7年には東京の日比谷公会堂でも阿礼祭が開催され、北原白秋作詞「阿礼さま踊り」が披露された。
いろいろな「人を神とする」歴史があるのですね。
*その記録はどのような性質の記録か、どのような社会背景があったのか*
半世紀以上前に習ったはずの「古事記」や「日本書紀」が、あちこちの説明板で見かけるのが奈良ですね。
ところで「古事記」はどんな内容だったっけと、Wikipediaを読んでみました。
古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本の日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。また、その時に舎人親王なども加わっている。上中下の3巻、内容は天地のはじまりから推古天皇の代までの記事である。
8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典とみなされ、記紀と総称されることもあるが、『古事記」が出雲神話を重視するなど両者の内容には差異もある。また、古くから歴史書として扱われてきたが偽書説も強い。
和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見うる上でも重要な素材の宝庫となっている。
「近代になって国家の聖典とみなされ」ていた時代を経たあとに、私は古文で学んでいたのですね。
日本文学の中では貴重な史料ですが、ノンフィクションとフィクションをどうやって切り分けていくのか、本当に難しいですね。
Wikipediaの「久留島武彦」を読むと、「近代になって国家の聖典とみなされた時代」の一端を垣間見たような気がしました。
*養田と稗田環濠集落*
その膨大な古事記と阿礼を中心にした説明書きですが、知りたかったことが書かれていました。
▪️社名の由来
稗田の猿女君(さるめのきみ)は、天皇より多くの養田を賜り、その田を猿女田、持ち主を猿女田王と呼んだ。のち、猿の字を略して、女田主(めたぬし)と呼ぶようになり、その祖神をまつる社を賣太(めた)神社と称することとなった。
「養田」、検索しても正確なことはわからないのですが、あの環濠集落の南側に広がる田んぼもそうだったのでしょうか。
▪️稗田環濠集落
周囲 2414.5メートル 巾14~4メートル
集落の広さ 5ヘクタール 東西250メートル 南北200メートル
稗田環濠集落は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての騒乱時代に防御のために築造された。東北角が段階的に『七曲り(鬼門除け)』し、西南角は南方へ突出しており、その形状は中国の漢の長安故城に一致している。室町時代に二回焼き討ちにあったが、築造当時のまま七百年近く活用されてきた。平成三年から五年かけて現況のように整備された。
原型に最も近い姿で現存していることと、最大の規模であることについては、全国的にもその例を見ないものである。
鎌倉時代から室町時代、どんな時代でどんな風景だったのでしょう。
興味が尽きないですね。
そばにはもう一つ大きな説明板があり、「賣太神社周辺の奈良北部図」という大きな航空写真と、稗田環濠集落の南に「人工の川」があったという発掘調査の説明と図がありました。
神社の中にこれだけの説明があるのも、やはり奈良ですね。
歴史を正確に知るというのは本当に大変だと思いながら、あちこちの説明書きを読んでなんとなく見えてくるものもある。
結論は急がずに、さまざまな記述を読み正確な年表にしていく。
こんなおもしろい世界なのに、学生の頃は退屈だったのはなぜだろう。
そんなことを考えながら参道を戻り、いよいよ環濠集落へ入ります。
「行間を読む」(251~)まとめはこちら。
周濠のまとめはこちら。