水のあれこれ 440 宣化天皇陵の周濠と鳥屋池ともう一つの幻の池

朝から暑さでヘタレそうだったのですが、米倉が由来の久米村の歴史を知ることができ、瑞穂の国をもっと歩く元気が出ました。

次の目的地は、ここから南西へ約1.3kmほどのところにある宣化天皇陵の周濠と鳥屋池です。

 

橿原神宮前駅で下車した時にはわからなかったのですが、駅周辺は少し高台だったようで、南西へと下り坂になっていました。

グラジオラスが沿道に咲いています。もしかするとネジバナを見かけるのではと、目を皿のようにして歩きましたが、残念ながら奈良ではまだ見かけていません。

 

下り坂が終わり、高取川を渡りました。近くの家の白壁には灰色の小さな瓦と七福神の焼き物が乗っています。古い家々の美しさが奈良ですねえ。

県道133号線を西へと歩くと、右手に田植えの終わった広々とした田んぼが見えてきました。

畝傍山のすぐそばです。

奈良時代からきっと畝傍山を背景にした田んぼだったのでは、と思う美しさです。

 

 

宣化天皇陵と周濠と、灌漑のための鳥屋池*

 

50mほど歩くと、南側に宣化天皇陵の森と周濠の緑の土手が見えました。そこからの水路を越えて天皇陵へと曲がると、両側は周濠のそばまで民家が建っています。

天皇陵と周濠と田んぼのそばでの暮らし、どんな感じなのでしょう。そばに、賃貸住宅もあります。

静謐落ち着いていて奈良に引っ越す夢がまたちょっと心の中に出てきてしまいました。困りましたね。

まあ、憧れは遠くに思うもの、ということにしましょう。

 

さて、奈良の周濠もだいぶ廻りましたが、宣化天皇陵の周濠はおもしろい形をしています。

通常は中の古墳に合わせた周濠の形なのに、東側へ鳥屋池が出っ張っています。

Wikipedia「鳥屋ミサンザイ古墳」にその理由が書かれていました。

寛永年間(1624-1644年)、灌漑用ため池(鳥屋池)工事に伴う周濠の改変

 

灌漑用ため池にするために「周濠を改変」してしまうとは、江戸時代の人にとって古墳とはどんな存在だったのでしょう。

そしてその水が現在も近くの田んぼを潤しているようです。

宣化天皇陵の周濠の水で育てたお米、食べてみたいものですね。

 

 

*「益田池の堤」*

 

マップを眺めていたときに、高取川を渡ったところに「益田池児童公園」と「益田池の堤」が表示されていました。何があるのだろうと思いつつ、当日は暑さのため訪ねるのをあきらめたのですが、帰宅してからこうしてまとめているうちにここにも大きな灌漑用のため池があったことを知りました。

 

益田池

益田池(ますだいけ、ますだのいけ)は、大和国高市郡、現・奈良県橿原市にかつて存在したため池であり、現在は堤の一部以外消滅している。橿原ニュータウンがその跡地に建設された。

歴史

平安時代初期、弘仁13年(822年)より、高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、天長2年(825年)に完成した。

Wikipedia「益田池」、強調は引用者による)

久米御縣神社からの下り坂の道は、もしかしたらこのため池の北側の縁でしょうか。

 

その「益田池碑銘」の説明には「弘仁12年(821年)に空海が改修した讃岐国香川県)の満濃池の技法を取り入れた成果ともいわれる」と書かれています。

8世紀初頭には香川でも川を堰き止めてため池を造っていたのですから、ほんと、瑞穂の国の土木技術はすごいですね。

 

*「益田池の堤 附樋管」*

 

マップの「益田池の堤」をクリックすると、そこにある案内板の写真を撮って公開してくださっている方がいました。地図をクリックすると碑文や説明を読むことができる、ありがたいことです。

史跡 益田池の堤 附樋管

       昭和五十五年三月指定

 益田池は、現在の橿原市西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地につくられた灌漑用のため池である。「性霊集」巻二所収の「大和州×田地碑銘井序」によると、弘仁十三年(八二二)に工事に着手したと伝えられる。

 益田池の堤は、貝吹山から北に派生してくる鳥坂神社の位置する尾根と、鳥屋橋のある久米大地の西南先端部とのあいだをせき止めてつくられている、長さは、約二〇〇mである。現存する堤は長さ約五五m、幅約三〇m、高さ約八mである。

 堤の断面観察によると下層はアコーズとシルトの自然堆積で、上層には土器の混入が認められる。

 昭和三十六年四月の河川改修の際、川底から樋管が二ヶ所で出土した。その位置は堤の外側で樋管は東南東の方向にのびていることが確認された。また、昭和四十三年九月に堤の内側にある橿原市下水処理場建設の際に樋門と思われる遺構が検出された。この遺構と先に確認された樋管とが一連のものと考えられると約90mにわたって樋管が存在していたことになる。樋管の時期については樋門と思われる場所から土師器の皿と黒色土器の椀が出土しており、池の築造時期とほぼ一致している。

 益田池の堤及び樋管は平安時代以来の治水事業を考える上で重要な資料である。

平成元年三月       奈良県教育委員会

 

ほんとに歴史があちこちにきちんと記録されている国です。

 

鳥屋池と益田池が並び、その北西側の水田を潤していたのでしょうか。

それがいつ、また川に戻り、そして「ニュータウン」になっていったのでしょう。関心は尽きないですね。

 

 

 

 

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