落ち着いた街 103 本郷台地の崖下の路地から御茶ノ水へ

上野動物園から御茶ノ水駅に戻るのに、今度は本郷台地の下側を歩いてみました。

古くからの民家がひしめく感じなのに、庭先の鉢植えや街路樹など案外と緑が多くホッとします。お寿司屋さんのそばに井戸があったり、廃墟のようなビルのそばにおしゃれなガラス屋さんがあったり、美しい日本家屋の家があったり、いろいろな時代を思い出させる路地が続きます。

また「明暦の大火」の説明板がありました。

 

神田明神男坂」は見上げる石段で、地図で見るとその手前の地下には千代田線が通っているようです。ちょっとこの坂は無理そうと思い、「女坂」へまわってみましたが、これまた膝が笑うような石段でした。

途中に下駄やさんがあったり、参道もまた路地ですね。

上り切ると男坂のそばに関東大震災で焼けた大銀杏の一部が残っていました。

 

神田明神へ*

 

初めて神田明神に入ってみました。

石獅子があり、その下から水が流れて小さな滝の風情です。この水はどこから来たのでしょう。

境内にはいくつかのお社があり、八雲神社の前には防火用水などに使うための雨水を貯める「鉄製天水桶」があり、1839年天保10年)に奉納されたことが書かれていました。

もう一つの小舟八雲神社にも天水桶があり、また近くには「日本橋 神田 桶工水溜講」という石碑と、やはり桶が置かれていました。

何度も江戸の大火をくぐり抜けてきて、台地の上の水に乏しい地域には大事な防火用水ですね。

 

魚河岸水神社もありました。

 日本橋魚河岸水神社は、徳川家康の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国富嶋郡柴崎村神田神社の境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。

 元和年間(一六一五〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(一八九一)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。

 当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。

 その後、昭和三十年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久二年(一八六二)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田祭には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。

 

期せずして水の神様に出会いました。

まだ千代田区大手町のあたりが海岸だった時代の大漁安全の神様でした。

 

最後に真っ赤な絢爛豪華な隋神門を出ると、御由緒に「東京の食を支える市場の発祥の地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されている」と書かれていました。

この頃の「市場」というのは、株やら投資とは違う「市場」ですね。

 

神田明神は有名で人が多そうなのでこれまで訪ねるのをためらってきたのですが、境内をぐるりと回るだけでこの地域の歴史が感じられる場所でした。

 

 

湯島聖堂へ*

 

神田明神の南側の参道の先に緑色の鳥居が見え、その向こうに鬱蒼とした森が見えるのが湯島聖堂です。

ここもまだ一度も入ったことがありません。せっかくなので訪ねてみることにしましょう。

 

神田明神の鳥居のそばに麹屋さんがあり、1904年(明治34)に造られ震災・戦災を乗り越えた「麹室」が今もあるという案内板がありました。

不忍池からここまで、四百年ぐらいの時空を行ったり来たりするような不思議な、でも落ち着いた街ですね。

 

聖橋の近くまで戻り、湯島聖堂に入りました。神田川左岸の河岸段丘を利用しているのでしょうか、いったん階段で降りるとそこにありました。

緑青の美しい杏壇門の向こうに前庭と大成殿(孔子廟)が見えます。

ちょうど誰も敷地内にいなくて、ビルと道路に囲まれているはずなのに静寂な時間を独り占めしたのでした。

 

案内所に「湯島聖堂の文化講座」のお知らせがありました。

生涯、学習ですね。

 

歩き続け、わからないことを尋ね続け、あとどれくらい生きられるかわからないけれど精一杯生きよう。

そんな思いになりながら、後にしました。

 

 

 

 

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