丸岡城を訪ねてみようと思ったのは九頭竜川右岸を網羅する用水路が通る水田地帯で、4世紀末はまだ湖だった地域にあったからでしたが、検索しているうちに1948年(昭和23)の福井地震で崩壊し、その後復元されたことを知りました。
「福井地震」、小学校か中学校で大きな地震として習ったような記憶があります。
それはたとえば今年生まれた人が、東日本大震災を「生まれる前の昔のこと」に感じるような感覚でしょうか。
福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)6月28日午後4時13分頃に福井県地方北部(福井市の北北東約10km、現在の坂井市丸岡町付近)を震源として発生した地震である。地震の規模はマグニチュード7.1で、福井市では当時の震度階級としては最大の震度6(V1、烈震)を記録した。
そして「福井震災は、関東大震災(大正12年/1923年)と濃尾大震災(明治24年/1891年)に次ぐ大震災」であっただけでも相当な被害だったと想像できますが、Wikipediaには続けてこう書かれていました。
わずか3年ほどの間に戦災、震災、水害と度重なる災害に見舞われ、福井市街は灰燼に帰したが、その度に市民たちの不屈の気概と不断の努力によって不死鳥のように蘇り、力強い復興と発展を遂げたことから、福井市は市民憲章で「不死鳥のまち」を宣言している。
美しく落ち着いた街が続く福井平野に、こんな歴史があったとは。
*「地震による消滅の危機からの奇跡的な復興」*
何かの資料で福井地震で崩壊している天守閣の写真を見たことが、今回訪ねてみようという動機のひとつになりました。
坂井市のホームページに「消滅危機からよみがえった『丸岡城天守』の奇跡」があり、その経緯が書かれています。
2.地震による消滅の危機からの奇跡的な復興
明治に入ると全国の城は次々と取り払われる憂き目にあいました。丸岡城においても同様に天守や城門、御殿、櫓、土地などは民間に払い下げられてしまい、他で利用できる城門や御殿などは取り払われ、城山には天守のみが残されることになりました。
天守の行く末を案じた地元の有志が、私財を出し合い天守を買い戻し、20年以上寺として使われ、明治34年に町に寄贈され公会堂となりました。
昭和4年に国宝保存法が制定。丸岡城天守は昭和9年に国宝(後の重要文化財)に指定され、老朽化が激しい状況であるため昭和15〜17年にかけて解体修理が実施されました。その後、昭和25年に文化財保護法が制定され、それまで国宝であったものはすべて重要文化財となりました、
昭和23年6月の福井地震により丸岡町では甚大な被害が起き、丸岡城天守は石垣諸共倒壊しました。戦争の傷跡も癒えない状況の中、誰もが丸岡城天守の再建は困難だと考えていましたが、丸岡城天守は町のシンボルであり、天守の修復は人々の願いとなりました。
当時の町長をはじめ町民の熱い思いが国に通じ修復が承認され、全国からの寄付を集め修復費用の確保につながりました。
幸いにも震災6年前に実施した解体修理の工事記録があったことから、これを元に昭和26年〜30年の復興修理工事が行われ、震災前と変わらない姿に修復され、丸岡城天守は往時の姿によみがえりました。
戦争の後というのは長いこと生きる希望や夢を失わせるようですから、さらに福井地震で天守閣が崩壊したことがむしろ「夢」として支えになったのだろうかと最初思っていましたが、よく読むと明治時代から私財を投げ打ってまで守ろうとした経緯があったようです。
訪ねた当日、「明治34年周濠は埋め立てられた」とメモしていたのですが、あとで読んでも意味がわからなくなっていました。
どうやら「町に寄贈されて公会堂となった」年で、現在の駐車場や霞ヶ城ふれあい広場があるあたりも周濠(堀)だったのでしょうか。
*行間の「葛藤」が明らかになるのは後世になってから*
この記録を書くためにもう一度丸岡城について検索していたら、「福井震災後における丸岡城の再建と『町民意識』」(歴史地震第29号(2014)249頁)という文献が公開されていました。
「歴史地震」という専門誌もあるのですね。
その中で震災後の丸岡城再建には当時の町長・友影賢世氏の尽力が大きかったとともに、また別の視点も書かれていました。
3. 丸岡城をめぐる『町民意識』の変遷
友影町長らの丸岡城への「想い」から、丸岡城が町民の象徴であることは自明のように思われるが、近代以降、丸岡城は一貫して町民の象徴となっていたわけではない。1971年(*原文ママ、おそらく1871年)(明治4年)、丸岡城は陸軍用地となり、翌年には城郭は民間人に払い下げられている。天守閣が取り壊される計画もあったが、費用面で中止になっている。それを聞いた南保治平ら四人が50両で譲り受け丸岡町に寄贈したが、維持管理が問題となり、丸岡町は天守を公会堂にすることにした。大正〜昭和初期にかけて都市計画が進められ、住宅や道路が整備された。戦時期には軍用施設となり、民間人が城内へと入ることができなくなっていた。
以上のように、近代以降、丸岡城は紆余曲折を経てきたが、震災前には丸岡の繊維産業の労働者として朝鮮人が丸岡城周辺に多数居住するようになっていたことは重要である。1947(昭和22)年の昭和天皇の行幸に際して治安の悪さが指摘されており、震災後、丸岡城周辺にはバラック街が形成されており、友影町長による丸岡城の再建にはある種のスラムクリアランス的な要素があったと考えられる。震災前後の丸岡城周辺の朝鮮人の存在については、震災誌や自治体誌には全く記載されていないが、震災前後の丸岡城をめぐる意識を考える上で検討しておく必要がある。1955(昭和30)年に再建工事が完了すると、自治体関係者、町民らによって盛大に祝われた。丸岡城が町民の象徴として確固たる位置づけを得たのは震災後の再建のあとであるといえる。
労働者として居住していた朝鮮人の方たちの「ある種のスラムクリアランス的な要素」。
いつの時代にも安く労働力を入れては(あるいは出しては)、うち捨て去った歴史があるのですね。
「存在さえなかったことにされた歴史」とかヒトのおかした失敗というのは後世になってようやく文章になり、その葛藤の末に得た普遍的な価値観を生まれたときから当たり前のように享受している「現代人」にとっては、先人の葛藤を批判的に見てしまいがちですね。
「明治に入って次々と全国の城が取り壊された」ことも、「歴史的に重要なものをなんで壊したのか」と思ってしまうように。
そしてその時代の葛藤を知らずに「なぜあの戦争に反対しなかったのか」と父を問い詰めた、それが今度は自分に向いてくるように。
そういう葛藤を経て、歴史的に重要なものがのこり伝えられていくといえるのでしょうか。
*おまけ*
丸岡城のそばにある休憩所のお蕎麦屋さんに入ってみました。丸岡はそばの産地だそうです。
なんと訪ねた日の翌日で閉店とのこと。
しんみりと、でも美味しく野菜かき揚げそばをいただきました。食べ終わった頃には、平日だというのにたくさんの人が行列をなしていました。
再建に尽力した方々は77年ほど後の、こんな風景を想像していなかったかもしれませんね。
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