水のあれこれ 443 高椋用水沿いを車窓から眺める

丸岡城にあるお蕎麦屋さんで翌日閉店予定だったことを知り、しんみりしながらお蕎麦を食べたあとお城の前のバス停から芦原永平寺線に乗りました。

丸岡町から南東へ山沿いに九頭竜川を渡って勝山永平寺線永平寺口駅を通る路線で、最初の計画だった鳴鹿(なるか)大堰から右岸へと分水されている用水路のそばを通ります。

ちょうど雨も上がりました。途中下車して、用水路沿いを歩きましょうか。

 

12時13分のバスに乗りました。観光客と地元の人で席が埋まりました。

 

消雪パイプで茶色くなった道路を走ります。積雪が多い地域ですね。

丸岡バスターミナルのあたりをぐるぐるっと回ると、木の家々が残り、路地も道路も味わいのある落ち着く街です。

新間バス停で時間調整のためにしばらく停車した後、走り出すと水田地帯が両側に広がりました。コスモスがあちこちに咲いています。

すっかり稲刈りが終わった後なのに、どこからか稲の香りがしてきます。

ところどころ、白い花が見えてそば畑もあります。福井ですねぇ。

 

GPSをつけながらマップと風景とに目をやりながら、見過ごさないようにしたのが丸岡町末政のあたりで、山側からきた水路を越えてしばらくその水路沿いにバスは走ります。

これが高椋用水で、「たかぼこ」と読むことを出発直前に知りました。

そして東側の山裾に近づきながら走ると、山側に一段高いところを水路が通っています。これが新江(しんえ)用水で、そのどちらも鳴鹿大堰の右岸から流れる水路です。

この風景を見てみたかったのでした。

 

高椋用水のそばに、大きな石碑が見えました。

用水路と水田開発の歴史が刻まれているものに違いありません。

途中下車し見に行こうかと思っていると、また雨雲が迫ってきているのが見えたのであきらめました。

 

 

*高椋用水の歴史*

 

用水路や干拓地を歩くようになって、検索すると知りたかったことを見つけることができる「水土の礎」というサイトがあります。

田のあるところ。

水の流れるところ。

人の住むところ。

あらゆる地域に、歴史に、秘められた「水土の礎」をご紹介します。

一般財団法人農業農村整備情報総合センターが運営する、水土に関する歴史をご紹介するサイトです。

日本の農業はこうした「先人の記録」があるからこその「強さ」があると思うこの頃です。

現代の「政治・経済」が使う「強い農業」といったニュアンスとは違いますね。

 

さて、その「水土の礎」に高椋用水の説明がありました。「たかぼこ」と読むのを知ったのは、このサイトのおかげです。

高椋(たかぼこ)用水

 この用水の歴史も室町時代に遡ります(開削は1453年以前)。十郷用水の上金屋地点で分流し、実に45の村を潤すという大用水。享保2年(1717年)の記録では約3万5千石と、小大名クラスの石高を誇っていました。

 このように数多くの村に配水されるため、七つの水路に枝分かれしていました。一本の水路を二つに分けるだけでも、渇水時にはただならぬ紛争が生じます。七つの派流ごとに井番役(水路の管理人)がいて、分水の調節をしたわけですから、この苦労は筆舌に尽くしがたいものがありました

 また、この高椋用水は途中(下久米田)で、大谷川が流入していました。大谷川は小河川ですが、俗に八千八谷と呼ばれる深い渓谷の水を集めてくるので、豪雨になると2時間程度で増水し、氾濫するという厄介な川です。洪水は容赦なく田畑を襲い、あたり一帯は泥海と化してしまいました。

 地元では、出水に備えて、太鼓、提灯、ローソク、笠、ゴザなどが常備してあったそうです。

(強調は引用者による)

 

鳴鹿大堰から数百メートル北側に、山から大谷川が流れていて水路と交差する場所があります。そこも歩いてみたいと思っていましたが、「八千ハ谷と呼ばれる深い渓谷」という表現があるのですね。

日本各地、こうして山から一気に洪水や土砂が押し流されてくる川が無数にありそうです。

 

 

最初に地図で「高椋用水」を見つけ、検索してこの「水土の礎」でその読み方と「七つの水路に枝分かれ」していることを知りました。

以来、地図で水色の線を追っているのですが、複雑すぎてすぐに見失ってしまいます。

室町時代から江戸時代、どのようにしてこの水路を掘削していったのでしょう。畏敬の念しか浮かびません。

 

そしてこの高椋用水が流れる地域は、いつ頃、湖から水田になっていたのでしょうか。少なくとも室町時代には陸地になっていたことだけはわかりました。

 

あの水路沿いに車窓から見えた石碑、何が書かれているのでしょう。

やり残した宿題がまた増えました。

 

 

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