鞆(とも)の浦の小さな湾に出ました。
穏やかな瀬戸内海が広がっています。あの向こうはちょうど燧灘(ひうちなだ)と伊予西条のあたりでしょうか。
鞆の港の説明がありました。
鞆の港
瀬戸内海の中央に位置する鞆は内海の潮の干満の分岐点にあたります。
内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法であったので「潮待ち」をここで行いました。こうしたことが多くの伝説を生み、万葉集に歌われることとなり、中世から近世にかけて歴史上の舞台として度々登場してきたゆえんであるといわれています。(以下略)
ああ、このあたりがちょうど瀬戸内海の真ん中なのかと、穴が開くほど地図を眺めていたつもりでも瀬戸内海を正確に把握していないままですね。
ここから少し小高いところにある鞆城跡と、福山市鞆の浦歴史民俗資料館を訪ねましょう。
祖父母の街を思い出す重厚な木の家々の間を抜けると、城跡への見上げるような石段の途中に稲荷神社と百度石がありました。
どれだけの人がどのような願いをかけてここを上り下りしたのでしょう。
後ろを振り向くと瀬戸内海と四国の山並みが見えました。もしかしたら石鎚山のあたりでしょうか。
*瀬戸内海の引き潮と満ち潮のちょうど真ん中*
石段を登りきるとさらに遮るものがなく瀬戸内海を見渡せます。四国との間に小さな島陰も見えますが、何島なのか見当もつきません。
地元の方々は島をどうやって見分けるのでしょう。
歴史民俗資料館に入ると、鞆の浦は森下仁丹の生地であることや宮城道雄の両親の生地であることなど説明がありました。
子どもの頃からのそうした方々の名前の記憶に、この地がもう少し身近に感じられました。
港の説明に、「引き潮と満ち潮のちょうど真ん中である」ことが書かれていました。「瀬戸内海の真ん中」というのは距離的な意味だけではなかったようです。
購入した資料にその説明があります。
鞆は、瀬戸内海に突き出た沼隈(ぬまくま)半島の東南端に位置しています。背後には急峻な山々が海岸まで迫り、わずかな平地に家々が軒を連ねて立ち並んでいます。
また、鞆は瀬戸内海のほぼ中央に位置するため、古くから潮待ちの港として栄えてきました。東は紀伊水道から、西は豊後水道からの満ち潮は鞆の沖合でぶつかり、その潮に乗って、船は鞆の港へ入り、引き潮に乗って再び船出していくのです。しかも、仙酔島(せんすいじま)、大可島(たいがじま)、玉津島などの島々が防波堤となり、天然の良港でもありました。
「東からと西からの満ち潮が沖合でぶつかる」、どんな状況なのでしょう。
Wikipediaの「鞆の浦」の「概要」にもう少し詳しいことが書かれていました。
瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊半島から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦の沖でぶつかり、逆に干潮時に鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件が大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より「潮待ちの港」として知られていた。また鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている、
なんと、古代からこの潮の流れを利用していたとは。その知識や技術ができるまでにはどれだけの観察と失敗があったのでしょう。
目の前の瀬戸内海はちょうど凪のように静かな水面でしたが、一日中ぼーっと眺めていたらその潮の変化を見ることができるでしょうか。
「瀬戸内海のちょうど真ん中にある」
言葉にするとあっさりしていますが、圧倒される歴史ですね。
*「奥深い歴史の重みと美しい自然」*
そうそう、購入した「鞆の浦の自然と歴史」は60ページほどの資料ですが、「おわりに」にこんな思いが残されていました。
鞆の浦の自然も歴史も、こうしてまとめてみると、益々深まるばかりです。編集に携わりながら、あれも抜けていた、これも抜けていたと、紹介できなかったポイントが次々に浮かんできました。その中のいくつかは追加挿入しましたが、すべてを取り上げればきりがなく、現時点では、これで良しとするほかありません。
本当に、「潮待ちの港」だけでもおそらく何十ページあっても足りない歴史があることでしょう。
瀬戸内海の自然は、四季折々というより、刻一刻と変化します。何度訪ねても、常に新しい発見があるのは、鞆の浦が、奥深い歴史の重みと美しい自然の一体化した景観を形成しているからにほかありません。
地図からバス路線を見つけてふらりと訪ねてみたのですが、私の海の原風景である瀬戸内海をまた一つ知ることになりました。
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