2022年3月に井原線で福山上水を訪ねた時に、福山上水の取水口のあたりだけでなくもうひとつ見逃さないようにと車窓の風景を眺めていました。
神辺駅を出ると支流を集めた高屋川と西から大きくつの字に曲がる芦田川がしだいに近づいて合流するあたりです。
地図で見つけたときに、まるで小田川のようだと関心が出たのでした。
雨で煙っていたことと車窓からだとそのダイナミックさはわかりにくいのですが、地図で気になっていた場所を見ることができて満足した記憶があります。
そこから両岸を小高い場所にはさまれて流れると、福山の市街地の西側を一気にまっすぐ海へ流れていきます。おそらく、洪水が多い地域で近代に入って放水路を建設したのだろうと想像していました。
その時にもWikipediaの説明を読んでいたのですが、なかなか歴史は頭に入らないままでした。
改めて読むと、すでに水野勝成の時代にその基礎ができていたようです。
転機となったのは、1619年(元和5年)に譜代大名水野勝成が備後福山藩主として入封したことである。西国の有力外様大名に対する押さえとして福山城が築城され、周辺開発を積極的に行い領内の経営に努めた。
その中で河川改修が行われた。河口部に広がる干潟を干拓し農地に変え、福山城下への氾濫を防ぐため城から川を遠ざけるように流れを西寄りに改修する工事が行われた。その中で有名なものが、中津原の改修である。府中から蛇行していた川筋を東へまっすぐ流し、中津原で南へ直角に曲げ、その曲がり角に二重堤防を築き、この地点で意図的に河川を氾濫させ城下を洪水から守る普請を行なった。
(Wikipedia「芦田川」「福山藩による流路改修」、強調は引用者による)
あのあたりは「中津原」というのですね。
*どのあたりまでかつては海だったのだろう*
河口付近の干潟が干拓地になりその少し上流に大きくつの字に曲がった川がある。祖父の田んぼの歴史と同じく「吉備の穴海」のような時代があったのでしょうか。
このあたりも「吉備」ですから、かつてどのあたりまでが海だったのだろう。
答えが国土交通省の「芦田川」にありました。
「太古の備後沿岸推測図」を見ると、縄文時代だと神辺駅のあたりは海で、現在の福山駅の北側にある小高い場所も島々だったようです。福山城が海城として建てられた江戸時代には現在の福山城のあたりまで陸地として描かれていました。
*水野公時代の公共事業*
この資料の中にも中津原の二重堤防の説明がありました。
この曲がり角に砂土手を設け二重堤防とし、洪水の氾濫に備えてこの時点で水を溢れさせ、下流の城下町を救う構造としました。また、水野公は土木工事に有為な人材を得て、干拓や開墾をし、池を掘り、治水工事を施して、田畑の増大を図られました。しかし、沿川では毎年のように川が氾濫し、そのたびに被害が絶えることはなかったようです。江戸時代中期の地誌「備陽六郡誌」によると、寛文13年(1673年)には、国宝「明王院」の門前町として鎌倉時代繁栄を続けていた草戸千軒町(現在の福山市草戸町)が芦田川の川底に水没するなど、想像を絶する大洪水の記録も残されています。
(国土交通省水管理。国土保全局「芦田川」、強調は引用者による)
「西国の有力外様大名を押さえるため」の福山藩だったようですが、水野公の功績は奈良時代の公共事業に重なりますね。
そして正確な歴史の記録がある国土交通省ですね。
*「砂土手」の記録もあった*
その中津原の砂土手について書かれたサイトもありました。
「備陽史探訪の会」の「芦田川の砂堰の跡(芦田川氾濫対策攻防の石柱)」です。
堤防の一部分には、下流の城下町を水害から守るための、砂堰とか砂土手とか呼ばれる箇所があったと伝わっている。その箇所は、幸千中学校から約三百m北あたりの河川敷と推測でき、現在のゴルフ場の中である。
幸千(こうせん)中学校とゴルフ場、地図で見るとまさに「つ」の曲がったところにありました。
中津原・森脇・下岩成村は現在では御幸町であり、かつてまだ集落がなかった時代はともかく、村々が成立してくると砂土手の決壊は大変であるから、村人たちは土手を守ろうとして砂を盛る。一方、郷分から下流の人々は、土手が決壊しなければ自分たちの地域の堤が決壊するので、砂を盛らすまいと妨害する。
それはほぼ毎年のように繰り返された農民同士の激しい攻防であり、江戸時代以降にも、時には警官が大勢出動して鎮圧にあたったという。
御幸町の森脇八幡神社の創建は、下岩成村が成立した慶長年間の前期であるといわれている、境内には、狛犬や常夜灯、石鳥居の三点セットのほかに石柱が建っている。この石柱はかつて芦田川の堤防にあった砂堰に埋めてあったものである。現在の御幸町と、下流の住民との激しい争いを避けるための妥協策として、堰に盛る砂の高さを、三尺、約九十cmとした。その三尺を図るためのものである。
石柱の碑文には
我芦田川沿岸地方の民ノ生命線トシテ多年悪戦苦闘ノ古戦場タル羽賀砂堰ノ由緒アル此標柱治桑ノ変永ク埋蔵ニ帰センコトヲ慮レ此処ニ移建シテ報本反始ニ資ス
と記されている。石柱は高さが三.三mあり、上部の九十cmはやや削られて細くなっている。石柱は砂堰に埋められて、細くなっている九十cmだけが池上に出ていて、この高さまでは堰に砂を盛って良いとされたのである。
明治三十八年に砂堰に埋められたこの石柱は、昭和八年に芦田川の大改修で砂堰が撤去された後に、記念碑として神社の境内に移された。
(「連載 『川筋を訪ねて』【その三】」より抜粋)
河道が定まらないなんて怖い話や水争いの悲惨な話だけでなく、堤防の高さでも上流と下流の争いが歴史の中では「つい最近」まであったのですね。
それにしても市井の人の正確な記憶や記録や先人の記録が、全国津々浦々にある国ですね。
いい加減なことは通用しない、この国の本当の強さだと思うこの頃です。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。